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映画「アートなんかいらない」を観て、アートについて考えてみた。

アートという言葉を聞くと「うん私好きです」という人と、「なんかようわからんわ、興味ないわ」という二派に分かれる。特に関西、大阪ではそれは顕著であり、阪神と吉本新喜劇は観るけど美術館なんか行くことないわ、という人が大半であり、そんなとこでアートを観賞する暇があったら、風呂入ってビール飲んで屁こいで寝るわ、というのが大阪人の規範である。
現代アートより、アート引っ越しセンターの方が愛着がある、という大阪人は多い。だから、この映画『アートなんかいらない』は非常にしっくりくる言葉でもある。
数年前だが十数年前だか覚えてないが、当時の橋本徹大阪市長が「文楽はどこが面白いの?エンターテイメントとして努力してるの?」と個人的嗜好で文化的助成金をバッサリ斬ったことがあったが、「わけのわからないモノ」や「理解しがたいモノ」に対して大阪人は手厳しい。そんなもん無駄や、と一言で一蹴する。
ここで考えてみる。大阪人の表現に対するカテゴリー別必要性について。

・お笑い→絶対いるわ◎
・音楽→ジャンルによるけどいるわ○
・古典芸能→落語はたまに聞くけど、歌舞伎とか文楽とかようわからんわ△
・演劇→ん?どこでやってんの?おもろいんやったら観んこともないけどなぁ△
・宝塚→好きな人は好きやろけど、ワシはどっちゃでもええわ△
・アート→そんなん無くても生きていけるわ。ちゅうかわけわからんわ❌

そう。アートは大阪人にとって最下層の表現なのだ。府民800万人のうち、ほぼ全員がお笑い好きであり、500万人が阪神ファンであるとするならば、アートファンは8000人ぐらいではないだろうか?この格差は一体なんであろうか?

大阪人は日常会話にすら「オチ」を求める人間である。友人のトークに対して「で、オチは?」と投げかける民族である。オレは貴重な時間を割いてお前のトークを聞いたんやから、それに対してせめて笑いで返してくれな釣り合いがとれんがな。オチない話聞かされたんやったら、その貴重な時間を返せ、と。
そんな民族であるから、わけのわからんモノ、理解しがたいモノに対しては手厳しい。「で、これ何がおもろいの?」と。

僕はそんな大阪人気質があまり好きではない。わけのわからんモノに触れた時のあのいかんともしがたい感じ、それを味わうのも人生の中の貴重な一コマではないか、と。笑えるとか、ノリノリなるとか、興奮するとか、いろんな精神状態があるのだけれども、わけわからんなぁから始まる気色の悪い感じもそれはそれでええではないか、と。たまにはそんな空気にくるまってみるのも、ええのではないか、と。

大阪人の商人気質と対極かもしれんが、この『アートなんかいらない』を観て、素直に思った感想である。ちなみにナレーションは町田康であり、朴訥とした関西弁が心地よかった。



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