約束の苺 1 ~橋本みつるの百合表現~

「昨日はずるずるずっと喋ってて」

「もう寝なきゃもう寝なきゃって言いながら止まらず」

「結局寝たのは明け方4時頃だった」

新書館刊行の「さらば友よ」収録の漫画表題作「さらば友よ」の冒頭だ。


初出は「ひらり、」vol3である。

「ひらり、」は言わずと知れた新書館刊行の百合アンソロジーシリーズだ。

2010年4月にに創刊され2014年の7月に休刊となるまで良質な百合漫画を発信し続けた。

エロスにも頼らず、毒もなしに、清廉で颯爽とした正統派の百合を描き続けた点で「ひらり、」は優れた掲載媒体だった。

さて、橋本みつるの名を「ひらり、」含め新書館で知ったという読者が多いのかもしれない。

寡作にして自ずから情報発信をされることの少ない漫画家だが、デビューは1989年。掲載誌は白泉社刊行の「花とゆめEPO」。

その後「花とゆめ」「花とゆめプラネット増刊号」にて掲載。

連載のシリーズではなく読みきり漫画が中心だ。

初めての連載は1988年刊行の「別冊きみとぼく」における「パーフェクトストレンジャー」シリーズ。「きみとぼく」は1994年~2000年にソニー・マガジンズが発行していた漫画誌である。

あのソニーが少女漫画を? というだけで当時はセンセーショナルだった。

「きみとぼく」はエンタメ漫画雑誌ではなく、歴然とあの集英社「マーガレット」や小学館「FLOWERS」の並び立つ月刊の少女漫画界に肩を並べようと打ち立てられた雑誌だった。

しかし内容はエキセントリックだったりアーティスティックな内容のものが多く、恋愛色を重視するティーンズの心を掴むにはかなり異色の存在だった。

また音楽をとにかく物語に絡めたがる傾向も顕著だった。

だがこの掲載誌で開花した才能も多くあった。

1998年から2000年にかけて、「きみとぼく」においては後半期に橋本みつるは連載を完結させ、読み切りも複数掲載されている。

そして4年間のブランクを経て2004年。

私が再会したのは新書館の「WINGS」刊行の単行本「青いドライブ」だった。内心で快哉を叫んだし、「ひらり、」に橋本みつるの漫画が収録されたときも編集者の着眼点に脳内で拍手を送った。

橋本みつるの描く少女は、かわいらしいのである。

かわいいというのは外見のことであろうが、かわいらしい、愛しい、愛でたい少女の無防備、あどけなさ、表情を余さずにとらえている。

彼女の描く少女の膝のあたりが好きだ。

技術的に優れて、正確に、上手に少女像を描く作家ならもっとほかにいるだろう。

フェティッシュに少女を美しく描く作家はいくらでもいる。

しかし、あどけなさ、という点において、橋本みつるを上回る描写を私は知らない。

それほどに多読なわけでもないのだが。

そんなわけで、冒頭の漫画だ。

「ひらり、」vol3に収録の「さらば友よ」である。

この漫画は「ひらり、」vol4に収録の「シスター・ストロベリー」と対になっている。

ある女子高の寮の同室である少女、榊あかる(さかきあかる)と野川多理(のがわたり)の物語だ。

単行本「さらば友よ」収録の他の作品、「さらば友よ」「シスター・ストロベリー」「木陰にて」「星ちゃん」に登場する少女らは制服が共通しており、恐らくは彼女らの所属する学校が同じであることが伺える。

このなかで一番異色を放っているのが野川多理視点の「シスター・ストロベリー」であろう。その作中で校名の「恵陽」という固有名詞が登場する。

橋本みつるの漫画は抽象性が高いので特定の校名が設定されていること自体が貴重だ。その点でも「シスター・ストロベリー」には特色がある。

「さらば友よ」は榊あかるの視点で語られる物語である。

冒頭のモノローグにあるように、いつまでもおしゃべりが終わらないほどに二人は仲が良い。

翌朝、目を覚ました多理を見て、突然にあかるは自覚する。


作中でそれが恋だとか好きだという言葉で名言されることはない。

しかしそれ以降のあかるは意識して多理を避けるようになってしまう。

多理はすぐにそれを感知して『悲しんだり怒ったり謝ったり』する。

あかるは『嘘をついても見抜かれ』てしまい、多理が『可哀想で』

ついに胸のうちを打ち明ける。

多理は驚くが、自分のことを嫌いなわけではないと知り安堵する。

このくだりのリアルなところはあかるが自らの恋に対して、『気の迷いかもしれない』『自分で』『様子見る』と言い出しているところだ。

それを聞いて多理は笑う。

『そうだよ 気のせい気のせい なんで私だよー』

実はこのあとに漫画としての別の仕掛けが訪れる。

その件は重要であり本作品のうまいところ、見所でもあるので割愛するが、上でふれたように多理はあかるからの恋情に驚き、それよりも友達に戻れたことに一度は安堵する。しかし、多理はすぐにそれではいけないことを、あかるが本心からそう感じていることを知るのだ。


自覚した直後にあかるはもうこう考えていた。

(男の子がいないからだ)

(学校も寮も男子がいないから………)

この物語の最後で二人は部屋をわかれることになる。

何か異常な事態が起きたとか、ふたりが喧嘩したというのでもない。

(多理は逃げないでちゃんと傍にいてくれてる)

(なのに私は大切な関係をダメにしようとしてるんだ)

あかるの恋情が本心だからこそ、ふたりはそこを離れなければならない。

友達でいられなくなるから。

部屋をわかれてから、その続きが多理による視点から語られる「シスター・ストロベリー」だ。先述のようにこの物語は特に異色で、男性が多理の元恋人として登場する。

部屋をわかれて数ヵ月後に多理はあかるから手紙を受け取る。

大人になったら手紙のやりとりなんてなかなかできないものだ。重い、などと言われるのが怖いアイテムであり…タブーとされている向きもあるのだ。

しかし、ここにおける彼女たちにはそれが「リアルタイム」なのだから、それほどの違和感はない。この違和感のなさがあまりに軽くて流されてしまいそうになる。だが手紙とはなんて素敵なアイテムだろう。

夜明けまで語り合う「さらば友よ」といい、手紙を受け取る「シスター・ストロベリー」といい、十代の頃にしか感じられない空気感に満ちたいい出だしなのだ。

「さらば友よ」とは、二人の関係破綻したとか喧嘩したとか、そういう表現ではない。そこに恋情が生じてしまったら、少女はもうそれに対する回答を得られるまでは相手と友達ではいられない。得たとしてもその先にあるのは友情ではない。それは後の多理による物語の冒頭でも明らかになる。

友達でいられなくなったら、もう離れるしかない、というのは演技を知らない思春期の少女の自らにとって残酷なところでもある。

それをされる側が例えば少年であれば事態はもっと別の物語に発展するであろうが、ここにおいてあかるが恋をしているのは同性の多理だ。

百合漫画だから当然、という言い方をすればそれまでだが、この物語にはどこか「見られる側としての怯え」がある。

寓話的な色を帯びているのもそのためだ。寓話的なというのは、もちろん、この作品が稚拙だと例えたのではない。寓話はすべて教訓を含み社会的視点を免れない。橋本みつるの漫画には寓話性があって、それを主題とした作品もある。

物語には少女たちばかりが登場するが、どこかに社会の観点がある。社会という存在が彼女たちを監督しているので、あかりは恋情を肯定できない。

彼女たちの纏う制服がまずその象徴である。

けれども本能はそれに抵抗する。

恋もまた本能の発露で、それを社会に照らし合わせたとき弾かれてしまうであろうものだとわかるから、あかるは自ら多理を離れた。

少女にとって恋情が本能だということを忘れないところが橋本みつるの描写力の本懐だ。対象があって存在するものではあるが、自ら自覚するところに少女の恋の本質はある。

ほとんどの思春期の少女を描いた百合漫画は上にふれた『悲しんだり怒ったり謝ったり』といった事態に着目して進行するのだが、こういった表情というのはどこか演劇的になる。

漫画には演劇性が求められやすい。それをさらりとかわしてしまうために橋本みつるの百合漫画はメジャーになりがたい。絵柄も独特だ。

しかしレズビアンである私にとってはこれほど感性に響く表現はない。

さて「シスター・ストロベリー」で語られる多理の真実と視点は、思った以上にシビアでリアルだ。

実はそちらが本題なのだが、その記述はまた近いうちに、続きの記事で。



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