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東京2020で感じた「アップデート」だとか、「多様性」だとか――Cornelius炎上についての私的感慨②

「トーキョー・ニーゼロニーゼロ」が終わった

 2021年7月23日に開幕した東京オリンピックが、8月8日に閉幕した。ちょうど1年前の8月に、都庁に行く機会があり、そこで「2021年 東京2020」と書かれているのを見かけた際には、連れ合いに「意味不明だね笑」「予算の関係で”東京2021”に変えられないのかね~?」などと話していたが、最後の最後まで「東京2020」で押し通した。

 2000年代のことを洒落た風に「ゼロ年代」と呼ぶように(なぜか自分でも言語化できないが、この言い方が私は好きではない)、「ニセンニジュー」じゃなく「ニーゼロニーゼロ」などと呼ぶことに、わけもなく不満を感じたのは2年以上前のこと。とにかく字面上は何も変わりなく「東京2020」は終わった。

 私はどちらかと言えば、いわゆる「東京オリンピック開催反対派」だったが、スポーツは好きだし、ちゃっかりギリギリで応募して当選し観戦チケットをゲットしたりしていたのも今は昔。

 「オリンピックが開催されたら、マスコミは掌を返したように嬉々として放送するな~」というのは簡単だ。「アスリートの姿を見たら、やっぱり感動しちゃうよね~」というのも簡単だ。「なぜ感染爆発しているのに、のうのうとオリンピックを開催するのか!」というのも、「もう決まっているのに、なぜ抗議してアスリートを応援できないのか!」というのも、簡単だ。

 ただただ、「トーキョー・ニーゼロニーゼロ」は、当初の呼び名のまま、「東京2020」は当初の字面のまま、とにもかくにも終わった。アスリート、サポートスタッフ、ボランティアスタッフ、悪名高くもある(?)オリンピック組織委員会のメンバー、etc、etc、問題とともに、裏で相当な努力もあったのは間違いない。

「東京オリンピックが終わったら、どうなっているのか」という気分

 消費税が増税された2019年10月ごろからか、もっと前からか、私はよく「東京オリンピックが終わったあとの、日本がどうなっているのか、わかりませんよね~」としきりに人に話していたものだ。

 先に私は「東京オリンピック開催反対派だった」と言っていたが、それは私が大学生だった2013年からの既定路線、別にデモに参加するようなタイプでもなし。社会人になってから、ビジネスを計算した仕事のうえでも、それを意識して動いた案件もあった(下記リンクは決定当時の記事を引用)。

 確かに、ほんの少しであっても、「2020年」という”記号”は私のなかでも、節目として感じる気分はあった。不動産やインバウンド事業はダイレクトに、それ以外でも経済、政治、社会は、折に触れ「2020年」という”記号”に影響を受けてきたはずだ。

 エンブレム問題、競技場問題、etc、etc、常に批判にさらされ続けてきた「東京2020」。それでもまさか、「新型コロナウイルス」という”事変”が起こるなんて、誰も想像はしていなかったはずだ。

 予想外のアクシデント、最悪の事態、未曽有の事象、日本の「ニーゼロニーゼロ」は、「コロナ一色のニセンニジューニネン」となった。疫病という”事変”に問題を起こした責任者の姿はない。「政府の対応は?」「日本医師会の対応は?」「経団連の対応は?」「市民の対応は?」……「何やってんだよ!」と言うのも、「みんな頑張った!」と言うのも、簡単だ。

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 ちょっと余談を挟むが、個人的には、「アベノマスク」は掛け値なしにクソだった……。「ありがとう、助かりました!」なんて擁護する人というのは、実際のところいたのだろうか。アホでバカな私でも、最初に人伝てにその報を聞いた瞬間には、我が耳を疑ったほどクソだと思った。さらに、いよいよ安倍政権の異常性が明らかになったはずが、辞職するやいなや支持率が急増したのには本当に驚いた。
 逆に、「自由(Liberty)」という言葉の意味では、親和性が高い「リベラリズム(直接は自由主義、だろうが現代では「民主社会主義」とか平たく「左翼」と言ってもいいのかもしれない)」と「リバタリアニズム(新自由主義、日本では基本的には嫌われているだろう)」の思想の本質的な違いがずっと気になっていたのもあってか、まさか高名な「リベラル」ポジションであろう方々が、こんなに簡単に「(感染拡大を阻止するためには市民を強権で制限してでも)”自由”を手放すべし!」と事実上発言している事態に驚いた(リバタリアンなら、おそらくありえないことだと反対しているだろう)。
 政治家評として賛否はあるだろうが、2020年3月に話題になったドイツはメルケルの「自由を侵害すること」への国民に対する弁明演説の爪の垢ほども、「自由」に関する議論は日本では活発化しなかったと言えると思う。

当然のように残念だったオリンピック開会式・閉会式

 そんな日本の「ニセンニジューニネン」は過ぎ、東京オリンピックは半ば強行に(?)、半ば当然に(?)開催され、そして閉幕した。
 開催の直前にも、ドタバタがあった。特に小山田圭吾(と小林賢太郎)の件には、ちょっとした衝撃を私は受けた。

 「辞退」については、「実際に酷いことをした」「そもそも受けたのが間違い」で済む話(というかそれ以上もそれ以下もない話)であるだろうが、前回も書いた「文化的な線の消滅」に関しては、開幕式と閉幕式を見て、いっそう危惧を感じた。

 やはりどうなるのか気になり、私は開幕式も、閉幕式も、テレビで観た(開幕式の視聴率が高かったという記事を見たが、むしろ騒動の影響があったかと思う)。もともと、「オリンピック開幕式・閉幕式」というのは、それほど印象深くも、面白いものでもないとは思う(個人的にロンドンオリンピックはちょっと記憶に残っているが、他は知らない)。

 ただ、実際に観た感想としては、本当につまらないものだった。はっきり酷かった。いや、私にはセンスがないので、「芸術」はわからない。コンテボラリーダンスの良し悪しなど、まるでわからない。でも、はっきり酷かった。

 メッセージ性はすごくわかりやすかったと思う。平たく言えば「多様性の肯定」というメッセージだろう。「多様性」……素晴らしいではないか、それで何が酷いのか。

 私が酷いと思ったのは、開会式の大工作業を模した場でのダンスも、閉幕式の公園を模した場でのダンスも、傍目から見たら「学級崩壊」を思わせるような、なんの「コミュニケーション」も生じていないような、なんの「交流の歓び」も感じさせないような「多様性」を表すパフォーマンスだったからだ。

 実際のところはわからないが、明らかに継ぎはぎだらけの式典のなかで、「Cornelius」を感じるところも、「ラーメンズ」を感じるところもあった。「辞退」したはずなのに、それはおかしいのではないか……と思う人もいるかもしれない。結果としての事実を見るに、日本人のマジョリティーが否定した”悪人”たちの”亡霊”が残ってしまっているのではないか、という気持ちに私もなった(実際には、それはあまりに急すぎる出来事て、仕方ないだろう。仕方ないだろうが……)。

 ただ、私が酷いと思ったのはそこではなく、「多様性の表現」が「学級崩壊」の様相を呈していたことだ。

 たぶん多くの視聴者が”日本的”とは意識していなかったであろうし、「1964年の東京オリンピックから」とも知らなかったであろう「ピクトグラム」のパフォーマンスも(中の人は素晴らしい練習をされていたと思う)、伝えたいメッセージがわからずに鼻白む。
 「大阪なおみ」さんが聖火リレーの最後というのも、「黒人とのハーフであり、社会的なメッセージを発信している人」というあまりに”記号”的な意識を感じて、鼻白む(本人が悪いわけではない)。
 「大人の事情がありました」感ありありのゲーム音楽の選曲も(任天堂はNGを出したのだろう)、文脈を無視した「上を向いて歩こう」も(東京音頭と同じく、考えなしに”昭和”との連続性を出したかったのだろう)、宮沢賢治を引っ張ってきて「子どもたち、ひいては未来へ」みたいな演出も(本来は、素敵なメッセージではある)、すべて鼻白んだ。

オリンピック反対派は「反日」なら、私は?

 「鼻白む」と書きなぐりつつ、補足で「()書き」を大量につけたが、とにかく私は「多様性の肯定」というメッセージが、「学級崩壊」として見えてしまった時点で、もう「これは酷い!」と感じてしまったのだ。

 ……「ナショナリズム」というのは、本当に怖ろしい。普段はいわゆる「ネトウヨ」的なものに対し、私は良くも悪くも嫌悪感を抱くのに、こういうときに「ナショナリズム」が自分自身で湧くことに驚く。

 私のなかで悔しい思いがしたのだ、「日本における多様性」の発信の仕方に。なんの調和もない「学級崩壊」なんかじゃない、”ガイジンウケ”する「エキゾチック」なんかでもない、もっともっと「多様性」のある「豊かな文化」が日本にはあったのではないかと……。

 リオ・オリンピックの閉会式では、『キャプテン翼』の漫画が流れたと記憶する。選ぶのにも窮するほど、ほとんどの競技に対応できるほど、日本のスポーツ”漫画”には傑作があったのではないか。欧米の音楽を必死に摂取し、今や世界に煌めくK-POPにも影響を与えた”J-POP”の歴史があったのではないか。申し訳程度のVTRに収まらない、”お笑い”の熱だってあったのではないか。

 もっともっと私が語れる範囲じゃない、”萌え”だとか、”BL”だとか、”関係性”だとか、あまりに広いカルチャーが日本にはある。平成生まれのくせに、”若者に人気”の文化になじめず、それでも理解しきれない「多様さ」が育まれてきた日本文化に対し、本当に「理解したい」と思って手を伸ばしながら、どうしても理解しきれず弾かれ、歳を取ってきてしまった私には、「なぜ、ここまで普段の日本文化の豊さとかけ離れた、まったく”記号的な多様性”をのうのうと表現できるのだ!?」と憤りすら覚えたのだ。

 こんな思いを抱く日本人たる私は、ナショナリストなのだろうか?

 先の総理大臣である安倍晋三が、「反日的ではないかと批判されている人たちが、今回の(東京五輪)開催に強く反対しています。」といった発言を雑誌の『Hanada』でしたことは、世間的にそれなりには話題にはなったと思う。それに対し、信じられないくらい低レベルなアンケート記事を『AERA』が用意したことは、それに比してだいぶ話題にならなかっただろうが、まあ問題視された。

 「分断の時代」だとか、本当かウソかわからないことがよく言われるが、そんな左右対立、東西対立、明確なロジックでもって、鋭く活発な議論がなされているわけでもないだろう。せいぜいSNSで一瞬バズるネタくらいか。

 先に、私は「オリンピック開催反対派」だったと述べたが、では日本発日本行の自前マイナス発信を受けて、自分でも驚く「ナショナリズム」が湧き上がった私は、反日なのだろうか、愛国者なのだろうか?

 反日でもあり、愛国者でもあり、まあ「〇○スト」「〇○派」と自称するイデオロギーも持たない、数多くいる小市民でしょうか。

「アップデート」と「多様性」はなんの関係もない。

 さて、「ゼロ年代」でも、「二―マルニ―マル」でもなく、ここ数年で言われている”記号的”言葉として、「アップデート」がある。「意識をアップデートしろ!」「時代に合わせ、アップデートしろ!」といった用法で使われる語だ。
  これは平たく言えば、「PC(ポリティカル・コレクトネス)を意識しろ!」ということだろう。いったい、それの何が「アップデート」なのか。

 「アップデート」という語からは、「バージョンアップする」というような意識を感じる。実際にそれで、使用する人の潜在意識として間違っていないと思う。はっきり言って、そういう言葉を使う人を見ると、「何を言ってるんだ。この人!?」と思う。何か、人類という生命体(=OSとでも?)がバージョンアップされ、日々更新されているような感じ、そうすべきタイミングを逃し、乗り遅れると機能不全を起こす感じ。

 言わずもがな、「人権」とか、「自由」とか、「個の尊厳」とかは、大事な概念で、というか概念というより本来なら「自然」に人の裡にあるものだから、「守らなければいけない」というのが適切なものだ(異論はあるだろうが、認めないでおく)。

 ひるがえって、「アップデート」という言葉は何か? 「時代がこうなっているんだから~」「今は〇○が問題になる風潮だから~」というのに合わせた流行語か、無意識のうちに「人は、人が成す社会は、自然と進歩していく」という前提に立ったセーフティな気持ちを裡に秘めたことが表れている言葉だろう。

 私は、そうは思わない。「人権」とか、「自由」とか、「個の尊厳」とかは、必死に「守ろう」としなければ、簡単に剥がされうるものだと思う。それは天下国家の誰誰がどうしたという話ではなく、日常生活の話でもだ。現に、2020年からこの方、社会的に「人権」「自由」「個の尊厳」なんて、犯されまくっているじゃないか。

 そして、それらは「時代精神」とは関係ない、「アップデート」もクソもない、「普遍」のものだと信じている。それに対して、20年前にどういう記事があった、どういう発言をしていたなんて、「アップデート」とはまったく関係ない話じゃないか。その言葉を使う人は、別に「普遍性」に依拠していないはずなのだから。
 私は辞退した彼らに対し、「酷いことをしたな」と思うが、まさか「アップデート」だのなんだの言う人が、何か物を言う口なんて、まさかないだろうとも思ってしまう。

 私は「ゼロ年代」に10代を過ごした。「トーキョー・二―マルニ―マル」に向けて20代を過ごした。「アップデート」という言葉が引っかかってきた。そして迎えた「学級崩壊」的な「多様性」を称揚する東京オリンピック開会式・閉会式。実に”記号”に動かされるなかで生きてきたのだな~という感慨を覚えた。

 時代精神が”記号”的なら、開会式も閉会式も、その「記号的なメッセージ性」をもってして、誰が否定できると言うのだろう。確かに「多様性」を謳ってはいた。日本が世界に向けて、「多様性の称揚」を示していたのは間違いないことなのだ。
 幾多の困難のなかで、問題が起き、面倒ごとはなあなあで振り捨て、なんとか築き上げた果てにアピールするのが、「多様性」とはブラックジョークでしょう。LGBTの旗印はレインボーフラッグである。しかし、それはあくまで意味を持った旗印であって、本来的な「多様性」とは、赤、橙、黄、緑、青、紫などと並べ、今の風潮ではピンクはちょっと、黒はちょっと、……なんて記号化して計算することではないはずだ。
 開幕式・閉幕式から「記号化された多様性」を感じたのは、あくまで私の感性の問題ではあるが、しかしながら今の日本社会を実によく表しているようにも感じてしまった。

 私が「終わったら、どうなるんですかね~?」と人に話してきた「東京2020」は現実として終わった。さて、本当にどうなっていくのか。
 やはり私は、「人権」「自由」「個の尊厳」、そして「多様性」をどう守れるか、育めるか、がこの先も大事なのではないかと思う。

(つづく)

※「小山田圭吾のいじめ問題」について、賛否を書くことを意図している記事ではありません。

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