「面倒くさい」が全てをスポイルする

中学校の国語の教科書に「サーカスの馬」というのがあった。主人公の少年が「ま、いいやどうだって」と呟くのが妙に印象に残っている。

私は非常に幼く鈍いところがあって、当時中学や高校の国語の教科書の内容が全く理解できていなかった。主人公の投げやりで自堕落な態度に不愉快な印象を持っただけである。(主人公の少年は貧相な馬を自己と同一視して憐んでいたが、その馬は実はサーカスの花形だったという事に触発されるという話だったのだが)

なぜこの話を思い出したかというと、今の日本人が自分を含めて「考える」という知的負荷を放棄してただ現実に屈服しているように感じるからだ。「ま、いいか、どうだって」。

特に格差や環境や差別など社会問題に対して余りにも鈍感ではないか。こういう話は恰も朝日新聞的なエリート臭い抽象論調に成りがちなんだけど、事はそこに留まらない。

自分の生き方や人生にでさえ余りにも無関心な気がするのだ。もう少し別の言い方をすれば、自分の違和感、本音に鈍感ではないのか。

「仕方ない」とか「大人の対応」とか「和を保つ」などと言いながら自分の心の中の本音と向き合わずに人生を過ごしていないでしょうか?

仕事に見合った報酬を得ているのか。やりたいことを我慢していないか。嫌な事を嫌だと表明しているか。同調できないならそれを相手に伝えているのか。何より本当にやりたいことをやっているのか。。

どれも皆ある意味「面倒くさい」事であるが、その「仕方ない」や「ま、いいか」の積み重ねが圧倒的に生命力を削いでいるのではないだろうか。

そもそも「本当にやりたいこと」を自分に問い続ける事は結構タフな態度だし、仕事も家庭も生活も余裕がなく考えている暇さえないという言い訳で日々が過ぎるわけだ。

だが逆に「面倒くさい」さえ克服すれば人生は創作と創発に溢れる彩り豊かなものになるという予感がある。意見や価値観の多様性はこの面倒くささを克服することで実現するものであり、日本の閉塞感や同調圧力を打破する唯一の道ではないだろうか。

私は単に自分の凡庸さと自堕落さに対して我慢がならないのかもしれない。今のままではまるでサーカスの馬の少年と一緒じゃないか。

これを打破するには本音を「語る」しかないのだと思う。そしてその一つがこのnoteになるかも知れない。

「語る」には言葉が必要であり、表現が必要。つまりどんどんアウトプットする事が必要なんだ。
そのアウトプットが的外れでも、上手くいかなくても、トライする事が大切。

どんなに稚拙でも、アウトプットは創作であり、私はこう感じた、こう思う、これが美しいと思う、苦しい、などを文でも、絵でも音楽でも、或いはスポーツでも料理でも表現する事、それこそが生きる意味だと最近は感じる。

ただスポーツする、料理するでなく、自分の固有のストーリーの表現として創作するのだ。

それは大それた事でなく例えばスポーツでも「テニスのラリーは会話だ」などのようにその人なりの拘りがある(面倒くさいデスネ)とないのとでは全く違うものになるのではないかと思うのです。


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