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北陸地方に残るアイヌ系文化:地名、白山信仰、出作り小屋

(はじめに)


 
著者は北陸地方に残っているアイヌ文化に非常に興味を持っています。 大きな半島の名前である能登は、アイヌ語ではっきりと解釈できます。 能登とは、アイヌ語で半島を意味します。 これは、実際の地理的特徴に対応しています。 能登はアイヌの最南端の地名かもしれません。 能登半島近郊の白山(= Mont Blanc Japonais)周辺には、第二次世界大戦前の農業のオフシーズンに狩猟小屋の文化がありました。 この文化は縄文時代の日本の古代の生活様式に関係しているようです。 この地区の人々は、農業の季節とそのオフシーズンに2つの異なるライフスタイルをとっていました。 縄文時代と弥生時代の2つのライフスタイルから生まれるかもしれません。 川島氏は著書の中で、猟師小屋の間取はアイヌの家と同じであると非常に示唆に富んでいると指摘されています。 したがって、著者は、アイヌ文化は現在も北陸地方に残っていると強く信じています。
 

1.    能登半島


 
能登半島という地名は、奈良時代や平安時代までさかのぼれる日本の古い地名ですが、日本語では意味が分かりません。しかしアイヌ語で考えるとすぐ意味が分かります。能登(not)はアイヌ語で半島という意味です。地形と意味とが見事に一致します。従って、能登半島は、半島半島といっていることになります。東大寺を英語に訳すとき、Todaiji Templeというのに似ています。 同じような地名は北海道を中心に沢山あります。根室の納沙布(ノサップ)岬、野付(ノツケ)半島、網走の能取(ノトロ)岬、宗谷の野寒布(ノシャップ)岬、秋田県の能代(not-shir:半島+土地)などがあります。能代以外はすべて地形は半島です。地名がそのままの地形を表しています。地名とは本来そうしたものでしょう。能代だけが現在半島になっていませんが、能代は近くに男鹿半島があり、大昔は男鹿半島に沿った土地だという認識であったのでしょう。石川県の能登半島は、これらの地名の土地からいくと、最南端の、明らかなアイヌ語地名といえます。滋賀県にある能登川という地名もひょっとしたらそうかもしれませんが、現在の地形は琵琶湖に突きだした岬にはなっておらず、はっきりしません。従って、not系統の地名では、石川県の能登半島が、明らかなアイヌ語地名の最南端といってよいでしょう。
 

2.    白山信仰と出作り小屋の習慣


 
石川県の県教育委員会が作ったビデオを、20年ほど前NHKの教育テレビで見たことがあります。戦前まで、白山山麓にあった習慣ですが、平地での農閑期に、山に入ってそこで狩猟採集をするという習慣がありました。平地で稲作農業をしますが、それが暇なときは山に入って、山菜や熊などの動物を狩って食料の足しにしていたそうです。山に入るときは、日帰りなどではなく、長期にわたって山で滞在するため、出作り小屋という専用の掘建て小屋を作って、それに寝泊まりしていたそうです。戦後はこの出作り小屋の習慣は廃れてしまいましたが、このときの祭りは伝えられて戦後も行われているとのことでした。この祭りでは、祭壇を何段か作り、一番上には、白山の山の神の象徴として雌雄一対の熊の頭骨を飾ります。その下の祭壇には、山でとれた山菜などを飾ります。そして祭壇の左右には御幣を飾っていました。熊が白山の山の神の象徴だということは、アイヌの人々の考え方とそっくりです。アイヌの人々は、熊のことを、ヌプリコルカムイ(nupri-kor-kamui, 山—持つ(守る)—神)といいます。偶然の一致かとその時は思いました。しかし狩猟採集もまた、縄文人やアイヌ人の生活習慣であったので、出作り小屋の習慣そのものが縄文期の名残かと思われました。私は、この石川県の出作り小屋の習慣が、まるで弥生時代と縄文時代の生活習慣を同時に行っているようで大変興味深くそのビデオ見ました。
 

3.    川島宙次氏が書いた「日本の民家」からの考察


 
そのことが記憶に残っていたところへ、川島宙次という方が書いた「日本の民家」(講談社現代新書)という本を読んで大変驚きました。その本には、誠に驚くべきことが指摘されていました。その本には、
-----「根葺小屋」と呼ばれる白山山麓の出作り小屋は、壁なしの伏屋であるが、その間取りはアイヌのチセと全く同様である。単室の中央にいろりがあり、作業用の前室がついている。飛騨の白川郷や越中の五箇山では、この種のものを「股建」と呼んでいる。----、
と書かれていて、白山山系の周囲に、石川県だけではなく富山県、岐阜県にも、この出作り小屋の習慣が広く残り、その間取りがアイヌのチセと全く同じであることが明確に書かれていました。アイヌのチセというのは、家という意味で、普通の住居を指します。そのチセの間取りには、きちんとした掟があり、祭壇はどこ、主人の座はどこ、客人の座はどこと、宗教観やしきたりにのっとり厳密に決められているものです。ただ偶然にそのような間取りが白山の出作り小屋と一緒になるはずがありません。同じ宗教観やしきたりがなければそのようなことは無理なはずです。したがって、この川島さんの本で、私は出作り小屋の習慣は縄文人やアイヌ人の習慣の残照であることを確信しました。
 

4.    白山信仰と被差別部落の白山神社


 
最近(平成30年(2018年)4月13日)、長野県上田市塩田公民館の社会教育指導員人権同和教育担当の知り合いの方から、「被差別部落では多く「白山神社」が祭られている。しかしその理由がはっきりしない」との記述が、1976年の長野県同和教育推進協議会「あけぼの」資料編に載っているとの指摘があり、どう思うかと聞かれました。私は、被差別部落では多く「白山神社」が祭られていることを、この時初めて知ったのですが、この指摘にすぐさま、白山信仰が、狩猟民族のアイヌや縄文人の信仰や風習から来ていることを、その方に話し、不思議でもでもなんでもないと答えました。このことから、被差別部落の成立の原因が、太古の昔から続けてきた縄文人の生産手段と信仰への、新しく農耕を生業とする弥生人からの圧迫によることがわかります。
 

5.    御母衣(みほろ)ダム


 
岐阜県から富山県に至る国道に、あるバスの車掌さんが、一生かけて桜の木をたくさん植えたという話を聞いたことがあります。この国道沿いに御母衣(みほろ)ダムというのがあります。私は、御母衣(みほろ)という地名を聞いて一瞬北海道の地名かと思いました。国道を長良川に沿って上流にさかのぼり長良川が尽きて、美濃の国から飛騨の国に入ると、今度は庄川の源流に至ります。庄川は日本海側に流れていますがこれに沿って北上するとこの御母衣(みほろ)ダムがあります。このダム湖のほぼ真西に白山がそびえています。これをさらに北上すると合掌作りで有名な白川郷があります。さらに北上すると岐阜県と富山県の県境です。県境を越えるとやはり合掌作りで有名な富山県の五箇山村です。従って、この御母衣という地名は、上で見たアイヌ文化と考えられる出作り小屋の習慣が残っていた白山山麓地域の中にあることがわかります。したがって、これはアイヌ語由来の地名と考えてよいでしょう。 
 

(おわりに)


 
以上のように、白山山麓や能登半島の周辺には、アイヌ文化がつい最近まで残っていたと考えられます。
 
 
 
 
*なお冒頭の白山の画像はフリー画像@白山市観光局より引用させて頂きました。
 
平成13年(2001年)5月27-29日 随筆
令和3年(2021年)1月18日   加筆
令和5年(2023年)11月20日   加筆

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