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《馬鹿話 735》 染みの誘惑 ③

私は慌てて今入って来た部屋のドアに駆け寄り、ドアのノブを回して思い切り押してみた。スチール製のドアはビクとも動かない。

いくら空き室だったからといえ、無断で見ず知らずの他人の部屋に入ったことを私は後悔した。

「冷静になろう」と私は自分に言い聞かせた。

誰かが部屋の外から鍵を掛けたのか、それとも自動的にロックされたのか。このまま訳の分からない部屋の中に閉じ込められることに、えも言われぬ恐ろしさが込み上げて来た。

「どうする、どうする」と私は呟きながら、この部屋から抜け出すことを考えた。

「まだ誰かが廊下にいる筈だ」と私は思い、恥も外聞もなく部屋の外に向かって大声を上げた。

「すみません。誰かいますか?」

ドアの向こう側からは返事もなければ、誰かが居る気配もしなかった。

もう一度ドアノブを前後に何度も揺すってみたが、やはりドアはロックされたままガチャガチャと言うだけだった。

今度は「すみません。開けてください」と叫びながらドアを叩いてみたが、いくら叩いても何の変化も無かった。

もうこうなれば何としても脱出を優先しようと、ドアを蹴飛ばしたり、体当たりをしてみたが、現状に何の変化もなかった。

「こんなに大声で騒いでいるのに、隣の部屋やこの階の住人達は気が付かないのだろうか」と私は考えた。

そこで私は隣の部屋があると思われる仕切りの壁を強く叩いてみた。

暫く叩き続けた。「こうすれば誰かが気付くだろう」と思いながら、誰かがやって来てくれるのを只管待った。

いくら待ち続けても人の気配も足音もしなかった。

私は次第に「このビルはどうなっているのだ」と怒りさえ込み上げて来た。

「そうだ携帯で外に連絡しよう」と私は思った。

「どうして早くそれに気付かなかったのか」と、私は自分の心が突然の事態に動転していたことを嘆いた。

私はポケットからスマホを取り出し、「まず誰に連絡しようか」と考えた。

誰に説明すればこのマンガのような状況を理解してもらえるだろうかと考えたが、そんなことよりも「今は誰でもいいか」と私は友達の携帯番号を適当に選んだ。

「荒木か?」

「あいつなら、この状況を後で笑い話にしてくれるかな?」

と思いながら、私は「あらき」と表示されている番号を押した。

電話は繋がった。

「もしもし」と私は荒木を呼び出した。

「あれ。もしもーし。もしもーし」

相手からの返事の声が聞えない。

電話は無言のまま、何処に繋がったのかも判らない。

「もしもし、聞えますか?」と私は荒木からの声を待った。

「あれ?」

私はスマホを耳から外し、携帯のアンテナマークを確認した。

「三本立ってる」

「携帯のアンテナマークが立ってると言うことは、電波は通常に来ていると言うことだな」と私は思った。

手元のスマホを見ると電話は相手と繋がったままのようだ。

私はもう一度スマホを耳に当て荒木を呼び出してみた。

「ツーツー」とも言わない無音のままだった。

私は何も聞えない相手に向かって一旦電話を切ることを伝えた。

続いて他の友達にも電話を掛けてみることにした。

「青田ならどうかな?」と私は電話を掛けた。

今度も電話は繋がったようだった。だが、やはり相手からの声は聞えない。

「加藤ならどうだ?」と私は電話を掛けてみた。

やはり「もしもし」と自分の声だけが聞えるだけだった。

「どうしよう」と私は焦った。

「そうだ、SNSを使ってみよう」と私は思った。

LINEの友達に連絡を入れてみた。

「あれっ?」と私はLINEの画面を見つめて呟いた。

自分が書き込んだ筈の文字が見えないのだ。

何度書き込んでも文字が消えている。

それどころか、私が書き込んだ空欄には相手の既読が付いている。

私は嫌な予感がして焦った。

私がスマホで使っていた全てのSNSのアプリで、片っ端から連絡を入れてみた。

「ダメだ。既読は付くが、こちらからの文字も写真も何もかもが表示されていない」と分かった。

夕暮れが迫って来るビルの窓を眺めながら、「あ~ぁ、とんでもないことになってしまった」と、私は絶望の溜息を吐いた。
 
 
― つづく ―

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