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《馬鹿話 721》 赤口(しゃっく)に障る

「いよいよ、今年も終わりだね」と町内一物知りのご隠居さんが、茶店の店先で渋茶をすすりながら呟いた。

「いいね、ご隠居は」と店の奥から大工の熊さんが、口を挟んできた。

急に現れた熊さんに、ご隠居は少し驚いたが、「どうしてよ、こう見えても私だって今年は何かと忙しかったんだよ」と熊さんに応えた。

熊さんはご隠居の隣に席を移すと、「と言いましても、大した事じゃないでしょう?」と、ご隠居をからかうように言った。

「お前さんねえ、年寄りにそんな言い方をするんじゃありませんよ」とご隠居は、優しく熊さんを諭した。

熊さんは、手に持った熱い湯呑に口を近づけ、息を拭き掛け「ふーふー」とお湯を冷ましながら、「ご隠居の忙しいのは、毎日暦を見ては、『今日は何の日だ』、『明日は何の日だ』と皆に言って回るくらいなもんでしょう?」と言った。

「ちょっと熊さん、ここへお座りなさいな」とご隠居は、自分の前の椅子を手で叩いてから、煙管を取り出すと雁首に煙草を詰め始めた。

熊さんは「しまった」と思ったが、ご隠居は、真顔になって熊さんに説教を始めた。

「それが、一番大事なことじゃありませんか」とご隠居は熊さんに言った。

熊さんは言われた通り、ご隠居の前に席を移すと、「どうして、それが一番大事なことなんです」とご隠居に尋ねた。

「私が、今日は大安、明日は友引、明後日は仏滅と皆に教えているから、長屋の皆は、こうして皆無事に今年を乗り切れたんですよ」とご隠居は言った。

「へー、そう言うもんですか」と熊さんはご隠居の言葉に上の空で答えた。

「今、丁度正午ぐらいでしょう、お前さん夕刻に祝い事とかしてはいけませんよ」とご隠居が言った。

「えっ、今日は夕刻から頭領の家に呼ばれて、皆で年越しの宴会をやることになっております」と熊さんは答えた。

「だめだめ、今日は赤口(しゃっく)。正午が吉で、朝晩は凶です」

「しかも祝い事は大凶で、火の元に気をつけろという意味もあります」とご隠居は言った。

熊さんはご隠居の話に不服そうに「でも、一番縁起の悪いのは、仏滅じゃなかったんですか」と尋ねた。

ご隠居は呆れた顔で熊さんを見ると「赤口が一番の不吉で、仏滅がその次に不吉とされていることぐらい、縁起を担ぐ大工だったら知っているでしょう」と言った。

熊さんはご隠居の話が長くなりそうなので、「あっ、申し訳ありません。大切な用事を思い出しました。ご隠居、暦の話はまた来年聴かせて貰います」と言って、その場に小銭を置くとすっくと立ち上がった。

「今の若いもんは人の話もろくに聴かないで、ああ、しゃっくに障る」とご隠居は、手にした煙管の雁首を煙管盆にポンと打ち付けた。

煙草の火種は、放物線を描いて熊さんの襟もとに飛んだ。

「あっちっち」と熊さんが叫んだ。

「だから、あれほど火の元に気をつけろと言ったのに」とご隠居が言った。


― おあとがよろしいようで ―


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