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地元ラブにはなれないけど、私はここにいるしかないと腹を括った。『ここは退屈迎えに来て』


気持ちが沈んで、何のやる気も出ないとき。
そういうとき、大体私は自分のことを言語化する気力がない。ただ漫然と理由もなく、いや、理由について思考を巡らす気力もなく、自分が漫然と沈んでいていい理由を並べているのだ。お手軽に使えそうな理由を並べて、「沈んだ気持ちをそのまま放置して良し」の自分に言い訳をする。まさに自家中毒気味だ。

2020年は大変だった。
コロナ禍で海外生活を中断し帰国したのが3月末。18才で上京した連絡不精の私には地元の友人なんてひとりもいない。仕事もない。お先真っ暗だ。が、外国から不本意な理由で戻ってきた私を家族は優しく迎えてくれた。美味しい日本のご飯、優しい家族、毎日ゆっくり湯船でポカポカになる暮らしはありがたいものの、整理がつかない様々な気持ちはボコボコとニキビのように膿みはじめ痛みや痒みを伴っていた。そして私は目を背けて読書を始めた。

何気なく読み始めたのは山内マリコ著『ここは退屈迎えに来て』

そばにいても離れていても、私の心はいつも君を呼んでいる―。都会からUターンした30歳、結婚相談所に駆け込む親友同士、売れ残りの男子としぶしぶ寝る23歳、処女喪失に奔走する女子高生…ありふれた地方都市で、どこまでも続く日常を生きる8人の女の子。居場所を求める繊細な心模様を、クールな筆致で鮮やかに描いた心潤う連作小説。

改めてAmazonにあったあらすじを見ながら、女の子8人も出てきたっけ?と1年前に読んだ本のことを思い起こす。どれも私みたいな話だった。

免許がなくてちょっと遠出するには親に送ってもらうしかない情けなさと不便さは現在進行形だ。母が友達の母に「帰ってきたのよ〜!〇〇ちゃん元気?会えたら楽しいだろうね〜」みたいなことを勝手に話すというページを読んだときは先週自分の身に起きたことを描写されているよう震えた記憶がある。私の知っている男の子の中にも〈椎名〉みたいな人はいたような気がする。はっきりとは思い出せないけど。

不本意ながら地方都市である地元にいる彼らの曇ったような焦燥感は私がまさに抱えているものだった。元々、地元が好きじゃない。自分の個人情報が3、4軒先の家や家族の友達の友達ぐらいまで伝わることに気持ち悪さを感じてしまうタイプだ。加えて、私が東京や海外に住んで体験したワクワクや価値観を共有できる友人は一人もいない。狭いコミュニティに常に自分の何かを絡め取られながら、自分の興味や関心を満たしてくれるもの(例えば美術館とか、劇場とか、そういうカルチャー的なもの)やそれを語り合える人々との関わりは持てない。それは思春期ごろから私が潜在的に抱えていた地元への被害者意識だろう。一刻も早く抜け出したかった。そして、抜け出してみた世界で、大袈裟に言えば移民のように、なんとか一人でやってきた自負があった。しかし、自分が育った街、自分がいざとなったら帰れる街があることはコロナ禍で行き場を失っていた私にとって何よりありがたい存在であることを思いつまされた。だけどやっぱり地元はつまらない…。地元への被害者意識とありがたみが腹の底でぐるぐると高速回転し、勝手に疲れていく。それが去年の今頃の私だった。

本のことを書いていたと思ったら、私の話になってしまった。
それぐらい、この物語はあの時の「私の物語」だった。物語の中で代わる代わる登場する人物たちは、地元と自分の間で葛藤していた。その葛藤に自分を重ね、頷きながら自分のことを考え始めた。登場人物たちが、葛藤にケリを付け、自分の生活を変えていく姿に勇気をもらった。まるで放置していたニキビにちゃんと薬を塗ったり、腫れすぎたものは「これは潰すしかないな」と決断するような感じだ。
地元ラブにもなれない。かといって、すぐにまた県外に出ていけるアテもない。そういう私に白でも黒でもなくなんとなく曇っているけど、「まあなんとかやっていくしかないか」と思える希望に似た何かをもたらしてくれた大切な一冊になった。

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