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人生をかけて観続けようと思った映画たち。~ウォームボディーズ


やっはろー諸君(やや古い)。
暗いニュースが多くて気が滅入りそう?在宅勤務や臨時休校休業で何もすることがない?
であればこの記事を開いたのは幸運だったな。ちなみに幸運と10回口に出すといつのまにかウンコになっているから日本語って不思議。
はてさて、今週の記事は第一回(次またやるかはわからない)打ちひしがれた時こそ観て欲しい勇気をくれる映画たち私選。
早速行ってみよう!いや、在宅勤務は仕事しろよな!

ウォームボディーズ

初めてこの映画を観たのは高校生の時だった。三度の飯よりゾンビが大好きなぼくは面白いゾンビ映画を探すためにTSUTAYAのホラーのコーナーに張り付く毎日だった。だからこそ、それは偶然だったし、この映画との出会いは今までのゾンビ映画とは違ったものだった。そもそもこの映画はTSUTAYAのレンタルフロアの中でも端っこにあるホラーのコーナーの中にはなかった。ラブロマンスの棚にあったから。事実、この切り口はとても斬新、それ故に異質だった。
 主人公Rはゾンビの青年。人類の生存領域はゾンビアポカリプスによって縮小し、シェルターの外には人間を喰らうゾンビとその成れの果てであるガイコツが跳梁跋扈している。ある日、Rは物資調達に来ていた人間の小隊を襲い、その中の一人の脳を食べてしまう。ゾンビが脳を食するのはそれを通じて人間だった頃の追憶ができるためだ。Rは捕食した脳のもとの持ち主の記憶の影響で、ジュリーという女の子に恋をする。Rは襲った小隊からジュリーを保護(拉致?)し、彼女との奇妙な共同生活がスタートさせる。そしてそれは奇しくもゾンビ化現象の根幹に関わる変化に繋がるものだった。

日本での興収は約5000万円程。商業的には失敗の烙印を押された今作は、売れているものだけが良い映画ではないことを証明している。恋愛映画好きにもゾンビ好きにも見向きもされないかもしれないこの挑戦はゾンビと人間の恋愛という宇宙人田中太郎で扱われたようなギャグの題材に大真面目に向き合っており、それまでのゾンビパニックに一石を投じる作りになっている。


What I’m doing with my life?
ぼくはなにをやっているんだろう。
So pale, I should get out more, I should
青白い顔、もっと外へ出て、摂生すべきだ
eat better.
My posture is terrible. I should stand up
姿勢も悪いし、背筋を伸ばすべきだよな。
straighter. People would respect me more
もしも、背筋をピンと張ってたら、
if I stood straighter.
もっとまともに接してもらえただろうに。
What’s wrong with me? I just wanna
本当になにがどうなってるんだろう。ただ、
connect. Why can’t I connect with people?
人とつながっていたい。なぜ、ダメなんだ?
Oh right! It’s because I’m dead.
ああ、そうか。ぼくは死んでいるからだ。
I shouldn’t be so hard of myself... I
難しい話じゃない。つまり、
mean...we’re all dead.
僕らはみんな死んでいる。

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ゾンビとは群衆である。体制や集団という立場に阿り、そうすることを正しいと信じ、ルールに外れたもの、つまり自分たちと違うものを攻撃する。自分を正義と信じて思考を止めてしまった彼らは、つまりぼくたちだ。この映画を突き詰めると全てこれに集約される。

愛は世界を救わないかもしれないが、愛は理解を進める。


これまでのゾンビ映画の多くはサバイバルホラーだった一方でウォームボディーズはゾンビとは何かを理解することを主軸としている。ゾンビとは、かつて思考していたもの、感情を持っていたもの。人間だったものである。物語の共通の敵としてゾンビのなれ果てであるガイコツを倒すために人間とゾンビが共闘関係を構築する。異質で恐ろしい敵が実は治療と回復を望む命を持つ同じ人間であることを、人々は思い知る。
人の形をしたクリーチャーのパニックホラーでしかなかったゾンビ映画において、しばしば忘れられがちな敵の正体。戦っている相手は人間だ。生きるために殺す。そんな当たり前の様式美をこの映画は覆そうとしている。

コミュニケーションしない、心を通わせない。予測可能な群衆たち。

前述の通り、ゾンビとはぼくたちだ。たった一つの方法で容易にわかる感情を画面を睨みつけながら、寝不足の頭で延々と考え続けている。だれが、どんな意図でどんな風に載せたかしれない画像や動画にコントロールされ、他人の生活を覗き見て悦に浸り、あるいは嫉妬に狂う。便利な社会の誰かが定めた幸福の定義を盲信して、それを強制されているとも知らずに追求している。
今作の主人公がなぜRというイニシャルなのか。これについては本作がシェイクスピアの演劇の翻案であることよりも、ゾンビは名前を持たぬ何者でもないものというメタファーであることが重要である。Rは心を持たぬゾンビから、ヒロインへの恋心をキーに人間に戻って行く。名前を持たない世界では容易に人を傷つける。現実では許されないような言葉が、匿名の世界になった瞬間に当たり前のように飛び交う。脳みそが止まり、指先しか動かないゾンビたちが、今日も言葉で誰かを食べる。集団で囲んで、ムシャムシャと。

ヒロイン、ジュリーの姿勢。


Rによって連れてこられた航空機内でジュリは人間と変わらない趣味を持つRの様子を見て、ゾンビという存在への自分自身の偏見を啓く。人間たちは生存のために軍政のコミュニティを築いた。そのような環境で育ったジュリの、誰かにそう聞かされたゾンビの恐ろしさという無知が次第に溶かされて行く。

And last of us?
ぼくたちゾンビかい?
Only kinda learn how to live again.
ただ、生き方を学び直している。
For a while, it seems that lot of us forgot
ずっと、ぼくたちは人生の意味を忘れていた
what that meant.
ようだから 。

ラストシーンでRとジュリーは人間の生存領域と外を隔てる壁が崩壊する瞬間を寄り添いながら眺める。この壁はもちろん心の壁でもある。ゾンビと人の境界などないことが理解され、壁など必要がなくなったのだ。

Rは名前を新しくつけないかというジュリーの提案に対して、Rが良いと答えた。ただのイニシャルだった記号はすでに充分な意味を得ている。新しくなにかをラベリングすることなく、彼が彼として生きて行く。そんな決意を感じるシーンである。

言葉が通わないなら心を通わせれば良い。
心が通わないなら、行動を示してみれば良い。誰かとつながってゆくこと。それが僕たちを人間に戻して行く。

ゾンビ映画の皮を被ったラブロマンスの皮を被ったこの映画を観るたび、僕はそんな所感を抱いてハッとする。他者を感情的に責めるとき、自分を感傷的に詰るとき、何か行うべき対処や踏まえるべき視点が抜けた自身の不成長に気がつく。その時、ぼくはゾンビで、あるいはゾンビを不必要に恐れる人間で、ああ、やはりこの映画に帰ってきて良かったと思うのだ。

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(https://www.cinematoday.jp/movie/T0013329/photo/003)
(https://www.youtube.com/watch?v=cGqKsLPC8MM)

人生をかけて観続けようと思った映画たち


さしあたって今後取り上げたい映画。


宇宙人ポール

カンフーパンダ

きっと、うまくいく

ダークナイト

映画クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲



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