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【5】「許す」ことと「諦める」ことは違う。

よく「承認欲求」という言葉を聞く。

でも、子どもの頃の私は「承認欲求が満たされない子ども」と言う訳ではなく、私自身の記憶は「透明人間」だった。

母は、ある程度の年齢まで、私を怒鳴ったりぶったりして育てた。

父は自分の趣味に夢中で、子どものために休日をあけてくれることはあったけど、基本的にネグレクトなひとだった。

「今の私」の恐らく一番古い記憶は、父が机の上のマイコン(パソコンの前身みたいなコンピューターだった)に向かっている背中をじっと見て、「お父さん遊んでくれないかな……。遊んでって言ったら、機嫌悪くなるな……。でも遊んで欲しいな……」と思っていた、幼稚園に上がってないくらいの頃の記憶。
(この文章を書いた後に、生まれて一カ月半ほどの記憶があることに気付いたけど、それは別の話で)

母に玄関から出されたのは、妹も赤ちゃんではないくらいの頃だったので、もう少し後のこと。

数年前に、海外で活躍している外国人のサイキックリーダーの女性に、「あなたの下半身には、お父さんのエネルギーが残っている」と言われたことがあって、当時は不思議でならなかったのだけど、最近になってそれが何故なのか、分かった。

私が、「前世で父の母(つまり私の祖母)だったから」だ。

理由は簡単で、「祖母が父のことをとても心配していたから、自分が生まれ変わって見守れるように、ちょっぱやで修行を終えて、私になって生まれてきた」ということだった。

正直、赤ちゃんの頃から近所のおばちゃんたちに、「お祖母ちゃんとそっくりね!」と言われていたけど、遺影の祖母と自分が似てると思っていなかったので、何故そんなことを言われないといけないのだろう、と、少し不満に思っていた。

祖母の遺影は、祖父が大事に持っていた小さな写真を引き伸ばしたものだから、輪郭すらぼやけていて、「似てる」以前の問題だったことを知ったのが、祖父が亡くなって手帳の中身を見た時。

写真が撮られた当時、既に三十代後半か四十代くらいと思しき祖母と、祖父が亡くなった時に二十代に入ったばかりの私は、瓜二つと言う以上に、あまりにも似ていた。

祖父と祖母の間には、三兄弟が生まれ、父は二番目の子どもだった。

男子校を卒業し、男性ばかりの職場に入り、母と結婚するまで父の生活に女性がいたことが少なかったことで、母はおろか、私たち娘に対しても、どう接していいのか分からなかったらしい。

ただ、私が父に対して持つ感情はそこではなくて、幼稚園児の私が打ち明けた一言に、間髪入れずに「全否定」した父の言葉に、表情に、態度に、何の疑いもなく受け入れてもらえると思い込んでいた小さかった私が、打ちのめされたという事実だった。

私に、生まれて数週間の記憶があることと関係しているか分からないけど、私は気が付いた時には、「人間以外の光る存在」と一緒に遊んでいたし、住宅街に住んでいたけど周りに子どもがいない環境で、それが小さかった私には「普通」だった。

幼稚園から帰って、父が車で帰って来るのを家の外で待つ間、ずっと「人間以外の光る存在」と遊んでいたから、それが「普通の人には出来ないこと」だということを、知らなかった。

だから、父に意気揚々と「妖精と遊んでいるんだよ!」と話した時、間髪入れずに「そんなものはいない」と全否定され、完全に拒否されたことで、父に対しても大人に対しても、「こんな風に言われるなら、話してはいけないことだったんだ」と、悟った。

幼稚園児が、「人間以外の光る存在」だったとしても、自分が友だちだと思って一緒に遊んでいる妖精たちのことを、嬉しくて楽しくて報告した瞬間に、まるで頬を思い切り叩かれたかのように拒絶された経験は、今も、私の中で小さく丸まって、泣いている。

「信じて」、「信じて」……と。

聡くて、半分以上この世界よりも「見えない世界」に気持ちが向いていた私は、幼稚園児の時から三十代半ばを過ぎる頃まで、父に対していつもいつもいつもいつも、「ごめんなさい」、「こんな子どもでごめんなさい」、「迷惑かけてごめんなさい」としか思わなかった。

私の気持ちを、父に話す時は、進学と転職の時くらいしかなくなった。

母にしても、じっくり子どもの話を聞くひとではなかったから、私は本当につい最近まで、「言いたいこと70%オフ」にしないと、家にいられなかった。

そして、私の話を真剣に、真面目に受け取ってくれる人はひとりもいなかった。

だから、家の中で私はひとり、「透明人間」なんだと思っていた。

その後の学校生活や、社会生活の中で、それは余計に強くなっていく。

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