自己内省

昨日は先輩と遅くまで飲んでいたため、8時30分ごろに起床。
ここ数日Note投稿をしていなかった。理由は自分の慢心のみ。

ただやはりNote投稿(日々の気づき)を毎日していないと、何かこう居心地が悪い感覚がしているため、改めて良い習慣であると思う。

最近書き留めていなかったため、少し長くなるが、徒然に書いていこうと思う、

現在は社会人4年目であるが、1年目の頃から通っていたスナックがあり、久しぶりにそこに行った。自分がCJCのことを具体的に考えるようになってからは初めて行ったのだが、ママ(経営者)からは多くのことを学ぶことができた。

1 時間は大切に(相手の時間をいただくという感覚)
2 思考し続けている(答えは出ずとも)
3 お客さんにはお店に来た時よりも、GOODな状態で帰ってもらう(それが幸せ)

やはり、現在成功している人の大切にしている考え方は業種問わず、みんな共通していると思う。自分たちは本から最初学び、生活しながら日々その学びの答え合わせをしている訳だが、ママに関しては、人生を通してこの気づきを得ているのだから本当にリスペクトを感じる。

そして同時に、感じたことはお金の感じ方にもあった。

会計は1万7千円だった(1人8500円)決して安い金額ではない。
いつも、「ちょっと高いな〜」という感覚でお支払いをしていたのであるが、昨日は全くその感覚がなく、気持ちよくお金をお支払いできた。

つまり

値決めにおいて基準となるのは、その業界の相場ではなく、ユーザーが納得した金額で支払うことができる金額か否か

である。ユーザーが納得して支払える金額であれば「高い」という感覚はそもそも発生しないのである。

ただこの納得して払える金額の精査が難しいのでこれからの課題である。

たった1万円で体系化されている貴重な話を聞けたのはありがたいことだ。

話は変わるが、最近Note投稿ができていなかった理由の中にZOOM会議が増えて、日常ルーティンではなかったことが原因の1つである。

どうしてZOOM会議が増えたかというと知り合う僧侶の数は一気に増えて直接お話させていただくことが増えたためである。

具体数でいうと、
6月17日〜6月20日までの4日間で8名の方と直接繋がることができた。
その内訳を示すと


4名 ご挨拶のみ(FB申請)
2名 スラックを通じて毎日コミュニケーションを取っている
   (今月と来月とZOOM会議予定済み)
1名 メンター的な人に初めて直接初めてコミュニケーションが取れた
1名 兼業住職という共通項で知り合った方とZOOM会議を実施
(その方から来週に別の僧侶をご紹介いただけることとなる)

たった1週間前には想像できないくらいに繋がりが増えている。
縁とは本当に運命的なものだ。その一瞬を逃さないようにしないといけない。その嗅覚的なものが、もしかしたら今の民間企業の営業職として自然に身についている感覚かもしれない。

特に最後の兼業住職の方とはFBのメッセージでいつかZOOMで話しましょうとなったので、こちらから明日はいかがですかと依頼して今日、直接繋がることができているのである。そして来週、他の方をご紹介いただけることとなったの。

思い立ったが吉日

である。

昨日のスナックの話でも「旅行で遊びに来ただけの人でも何かの縁でお店に来てくれてたなら当然、その出会いを大切にする」と話があった。

昔の自分だったら「このお客さんは旅行で来ただけだから、今後お店に来ることはないだろう」と思って手を抜いてしまうかもしれない。

上記に記した、兼業住職の方は50代の方で自分よりも何倍も人生経験豊富な方であるが、CJCの活動に直接繋がるかはわからなかったが、「縁」を大切にしたことで新たな繋がりが生まれたのである。

こうしてたくさんの出会いを与えてくれているのだから、必ず還元して見せる

最低でも、古溪と関わった人全員に幸せになっていただく

また、今日話した兼業住職さんとスナックでの会話での共通項があった。

自分はいつでも勉強不足で教えを乞うスタンスであり続けないといけない

本当にその通りだ。慢心が自分にあると人との縁はきっと生まれない。
自分は勉強不足で誰かに教えて貰い続ける人生でなければならない。
そしてその教わったことは、誰かに惜しみなく自分が伝えなければならない。

また話は変わるが、今日、学生時代にお世話になったアルバイト先の社員さんが心不全で亡くなったと連絡があった。

身内の死は自分が生きる意味を気づかせてくれる

その社員さんには教わったことは「仕事を舐めるな」ということだ。
大変、恥ずかしい話であるが、学生時代のバイトでは自分の傲りにより、当日欠勤をしたりと私はお店に多く迷惑をかけていた。

その際、その社員さんは私のことをクビにした方が良いんじゃないかと店長に進言したそうだ。その進言は真当である。

古溪の怠慢により、後輩もその姿をみて仕事を適当にするようになりはじめていたからである。

結局、自分はその社員さんに叱咤され心を入れ直して、アルバイトを続けることができた。

もしかするとその社員さんの死から自分へのメッセージは同じことかもしれない。
現在、自分が働いてる会社に対して当時のアルバイトに対しての慢心の時の自分が確実にいる。

もう一度、気合い入れ直せよと言ってくれているのかもしれない

人の死は自分がどう生きるかを教えてくれる最後のメッセージである。
体感した。

今日の進歩

今日は自然と体が座禅を求めた。何も求めずに座るという行為は心が落ち着く。

自己内省し続けた1日であった。

特に答えは出ていないが、この積み重ねが本当に大切だ。

外部との繋がりと圧倒的な自己内省











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