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現代美術家と仕事するということ

とある中国のディペロッパーが、開発中のビルのエントランスに置く作品を探していた。いくつか参考作品を見せる中で、栗林隆(くりばやし・たかし)さん(HP)の作品をいたく気に入った。なんとか入れられないだろうか?というので、しばらくぶりに栗林さんと連絡を取った。


栗林さんとは、2015年「スペクトラム展」(スパイラル、東京)、2018年「Enfance (子ども時代)展」(パレ・ド・トーキョー、パリ)で一緒に仕事をしている。境界(たとえば海の中と外とか)をテーマにスケールの大きい作品を作る、私が最も信頼する作家の一人だ。
そもそも商業案件やるのかな、と思いながら聞くと、条件が合えばやります、とのことだった。ただ、「僕でなくてもいい案件は、やらないです」と。


「ぜひあなたと、という仕事だけやりたい」


これ、すごくよくわかる。なぜかと言えば、持てるものすべてをつぎ込んで作品を作っているから。

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栗林隆《Vortex 2015 “A letter from Einstein”》、「スペクトラム」展(スパイラル、2015年)での制作風景。アインシュタインがルーズベルト大統領に送ったとされる、核兵器開発許可を求める手紙をシャンデリアにした。アイデアから設置まで、頭も体も、アシスタントも、最後はご友人達まで総動員。スパイラルのキュレーター大田佳栄さんが予算と施設面の調整で奔走し、私は構想段階で深く関わった(英語の禅の本を何週間もかけて渉猟したことを覚えている)。(アーカイブ


というか、一般の人が思っているレベルから相対的に眺めてまとめるならば、作家はおおむねこういう感じだ。自らの持てる思考、時間、お金、技術、経験、家族や友人関係、などなどを全力で使って作品を作る(時に「捧げる」という表現が合うことさえある)。なんでそこまで、と問われれば、それが彼らにとっての「生きる」ことだから、としか言いようがない。誰しも、これを奪われたら生きている意味がない、というものがあると思う。仕事とか趣味とか、家族や愛する人と過ごす時間とか。それが作家たちにとっては「作品作り」なのだ。


・・・と説明しても、一般の人にはあまりピンとこなかったりする。ただ「面倒なタイプの人なんですね」なんていう理解のされ方をしてしまったりすることもある。それは本当に残念なことだ。なんで美術作品が数千万円とか数億円とかいった値段で取引されるのか、不思議に思ったことはないだろうか。それは基本的には、美術作品が計り知れない魅力、人を引きつける魔法のような力を持っているからであり、その力はどのようにして付与されるのかというと、作家の上記のような態度によってなのであって・・・やっぱりちょっとは理解する努力をしてみてはくれないだろうか、と切ない願いを抱くこともある。


ともあれ、アートキュレーターとかアートプロデューサーとか、クライアントとアーティストの間に入って仕事をする人間には、アーティストの一番大切にしているものの理解が肝となる。クライアントとの間に入って双方のやりたいことをすり合わせていくが、もちろん作家が表現の芯になる部分を実現できなければ、話自体がいきなり水泡に帰す。そこは死守しないといけない。


冒頭の中国案件はビル自体があまり美術作品に向かないことがわかり、作家と交渉に入る前に白紙に戻した(次は建物を立てる前段階で相談してほしいとお願いした)。作家と一般の人の間のギャップ、さらに中国の現時点での「美術」受容レベルとの間にもギャップがあるので、中国案件はうまくいくのかまだ本当にわからない。でもすごい勢いで進展していく上海を目の当たりにしていると、時間の問題ではないか、とも思う。異なる人々の橋渡しが自分の仕事だから、あせらず取り組んでいこうと思う。


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