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500リエルの肌感覚 #お金について考える

お金を積む原風景?

 昭和生まれの僕は未だに現金主義であり、切符もよく買う。最近は電子マネーしか受けつけぬ自動改札機が増えたから、改札口を通る際はドキドキだ。切符を入れる場処すらないのが当たり前になった。駅員が切符をカチカチきる音が、ピッという自動改札の電子音に変わって久しい。そこに不安を憶える人間なんて、今時きっと僕ぐらいなのだろう。もう何十兆お金を積まれても、お金自身のぬくもりに触れられぬ時代になったのだ。

散る花幣があってもよいじゃないか?

 人類は貝や石などをはじめとして、様々なものをお金として用いてきたが、きっと支払いの度に音を奏でてきたのだとおもう。貨幣などはその典型で、レジのまえでジャラジャラといわせながら支払えば、ある種のお祓いに聞こえなくもない。しかし、電子マネーの支払い音は僕個人的にはまるで心電図音のように聞こえ、祓った気になれない。人の胸から伝わる鼓動と心電図から発せられる機械音があきらかに異なるように、紙幣と電子マネーの決済体験は実は真逆である。いっそ花幣にでもしてくれて、財布のなかで儚くお金が散っていってくれた方が、まだお金とともに生きていえると言えるのではないだろうか。

茶室に佇む本はいつから本なのか?

 そんな僕は本のしおりとして、よく500リエル札を用いていた。20円にも満たぬカンボジアのこの紙幣には、日の丸が刷られているからだ。実は本もお金もある意味、祖先が同じでグーテンベルクが深く関わっている。両者とも彼の活版印刷術がきっかけで、大量に世に出るようになった。やはり時代遅れの僕が落胆するのは近年、紙の本もまた電子化への移住が止まない点になる。これにより読書文化が完全に断たれると視てよい。文化とは身体のことであり、電気からはその文化的身体を感じることはない。

画面の向こうに生命はあるのか?

 本と同様、今お金からも文化が急激に消えていっている。文化なきお金の支払いが辿りつくのは何処か。そんなのは道理なき経済活動に決まっている。現に電子マネーがピッと決済ボタンひとつで地球丸ごと消費しつくしそうとしているではないか。スマートな近代的大衆よ、500リエル札にたち還るべきときは今しかない。色々な人の手を渡り穢れたその1枚の紙幣で支払うからこそ、僕たちの慎ましい未来は買えるのだから。

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