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いわゆる反差別界隈は差別界隈である

五野井郁夫高千穂大学教授の差別意識を露呈させた毎日新聞のインタビュー記事

 かつて、在日特権を許さない市民の会という市民団体が存在していました。現在は公式ウェブサイトのドメインが利用期限が終了したのか、ウェブサイトの閲覧すら行うことができませんが、かつては多くの会員を抱えて週末になると街頭宣伝活動を行っていました。
 私はこの在日特権を許さない市民の会の地方支部の支部長や本部のアドバイザーとして会議に呼ばれていた人物と知り合いであることもあって、在日特権を許さない市民の会の会長であった桜井誠さんや幹部の方、特別会員の方と話す機会がありました。それから得た印象としては、在日特権を許さない市民の会の幹部クラスの人物は、街頭宣伝活動などの手法に問題があることは承知しているが、マスコミが自分たちの主張を取り上げることがないから仕方なくそのような手法を用いているという認識で活動しているものが多かったという印象を持ちましたが、その影響を受けたと思われる会員の中には会話をしても無駄と感じる人物が少なくないということがわかりました。
 ある在日特権を許さない市民の会特別会員は、開口一番でこう私に問いかけました。

「安田浩一って、在日ですか」

私は、安田浩一さんが特定の思想を持つ者に阿ることによってクオリティに欠ける記事をそれらの者に読ませているダメなジャーナリストであることは承知していますが、国籍などを知るはずもありませんし、どこの国の国籍を有していたとしても書いた記事によって評価されるべきだと思っています。そうであるにもかかわらず、その在日特権を許さない市民の会特別会員にとってはそれが重要らしいのです。おそらく、在日であれば反日であるから、安田浩一さんの書く記事を丁寧に読むことなく批判することができるなどというこの方独自の論理があるのかもしれません。しかしながら、在日コリアンにも様々な方がいらっしゃるのはご存知の通りですし、在日コリアンを支援する立場にある大韓民国民譚自体が当初はのりこえねっとを支援していたが、のりこえねっとが都庁前街宣で政治運動に舵をとったあたりから距離を置くようになっていたという事実があります。この方はそのような様々な事象を総合して自ら主張するという難しいものの楽しい作業がまったくできないのだろうと感じたのを覚えています。
 このような昔話を思い出したのは、五野井郁夫高千穂大学教授が「キャンセルカルチャーを奪い返す『表現の自由戦士』は正しいか」というインタビュー記事が毎日新聞に掲載されているのを見たからです。

◆本来ならばキャンセルされる側の人たちがキャンセルカルチャーの手法を用いる逆転現象が起きています。
 たとえば、女性差別的な表現を守ろうとする、いわゆる「表現の自由戦士」と言われる人たちはその典型です。

毎日新聞「キャンセルカルチャーを奪い返す『表現の自由戦士』は正しいか」

 この五野井郁夫高千穂大学教授の発言によれば、彼が認定した「弱者」がキャンセルカルチャーを行使する権限を有しているはずだという意識をお持ちのようです。しかしながら、「弱者」というのは非常に曖昧な概念で、どのようにでも解釈し得るものであることも認識しておく必要があります。

本多平直衆議院議員の場合でみる「弱者」の認識の曖昧さ

 刑法の強制性交罪の性交同意年齢の引き上げに関する議論で、「50歳近くの私が14歳の女性と性交したとしたら捕まるのはおかしい」と意見を述べたところ、その発言が問題であるとして衆議院議員を辞任し、その後無所属の米山隆一衆議院議員の秘書となっています。
 本多平直元衆議院議員は自らの発言がねじ曲げられたと主張されているようですが、そもそも本多平直元衆議院議員の発言自体が何の問題もないものです。刑法改正の議論では、個別の事例が改正案の構成要件に合致して処罰することができるのかどうかをあてはめて、改正案が適切かどうか判断することが求められます。したがって、どのようなおぞましい事例であろうと議論されるべきですし、それが不適切だとおっしゃった会議のメンバーこそが刑法改正の議論に相応しくない方であるとも言えます。
 その本多平直元衆議院議員は、現在米山隆一衆議院議員の秘書となっていますが、前述の発言があったことで衆議院議員を辞職した後に立憲民主党内で本多平直元衆議院議員を秘書で採用することを忌避するようなこわばりがあったとすればどうでしょうか。本多平直元衆議院議員は衆議院議員という権力の側の人間であったことは確かですが、あの発言ごときで議員辞職を強いられて再就職にも苦労する存在であったとすれば、彼が「弱者」であると主張したのであれば、否定するのも困難になるのではないでしょうか。

五野井郁夫高千穂大学教授は「弱者」の立場を語る資格があるのか

 そして、キャンセルカルチャーが「弱者」の権利であると主張する五野井郁夫高千穂大学教授自身が「弱者」を語る資格があるのかという問題も浮上してきます。
 五野井郁夫高千穂大学教授と同じような思想傾向を持つ者たちは、麻生太郎元副総理や菅義偉元総理大臣の食事などを取り上げて庶民感覚がないと批判してきました。それはすなわち弱者である庶民とは異なる立場の人間であるから、弱者の気持ちがわからないはずだという認識に基づいたものですが、そのような主張をするならお父様が東京大学の歴史の先生で、アカデミア界隈の中にお父様の弟子やお世話になった人が残っているであろう五野井郁夫高千穂大学教授は、弱者の気持ちがわからない人物であるということになってしまうわけです。

レッテル貼りという差別意識

 政治家の生まれ育った境遇で「おぼっちゃま」などとレッテルを貼って「庶民の気持ちがわからない」などと批判することに私はその批判者の差別意識を感じます。男性の政治家が女性の気持ちや境遇を全く察することができないわけではなく、女性の政治家が男性の気持ちや境遇を全く察することができないわけでないように、恵まれた境遇に生まれ落ちた者が庶民や社会的弱者の気持ちや境遇が全くわからないなどということはないはずです。同様に、ひょっとしたらお父様の影響でアカデミア界隈で恵まれた境遇にいるかもしれない五野井郁夫高千穂大学教授も様々な要因でアカデミア界隈で苦しんでいる人々の気持ちや境遇を全くわからないということはありません。したがって、「弱者」でなければキャンセルカルチャーを行使してはならないという認識は、差別意識に基づいているものと私は考えます。外見からどのように恵まれているように見える人だとしても、その奥には人に伝えられない苦しみを抱えているかもしれませんし、その者が恵まれていように見えるから特定の権利を行使してはならないとするのですから、差別以外の何物でもないでしょう。