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ちあきなおみ~歌姫伝説~15 郷鍈治の途・中篇

 一九四七(昭和二二)年、戦後混乱期、野望崩れ去り、宍戸家は全財産を失い一転して奈落の底に突き落とされる。
さて、これからどうしたものだろか・・・・。 
 おそらく、幼かった郷鍈治(以下・鍈治)はこの重大な局面において、両親や親戚、また兄たちや姉の苦悩を肌で感じつつも、判然としないままその状況に身を置いていたものと思われる。ただ、目まぐるしく変化してゆく時代状況と自らを包囲する環境の中で、ものの善と悪、ものごとの真理や道理といったものを、下からじっと視覚的かつ冷静沈着に見極めていったに違いない。

 宍戸家が陥った苦境を挽回すべく一念発起したのは鍈治の兄・宍戸錠(以下・錠)だった。 
 ただでさえ食糧不足のこの時代、宮城から東京まで宮城米を担ぎ何時間もかけて汽車を乗り継ぎ、合法と非合法の両方に身体を着地させながら米を売りさばき、その金で家族のために食糧を買い込んできたり、また将来を見据えながら熱心に勉学にも勤しむようになる。鍈治はそんな錠の姿に尊敬の念を覚える傍ら、急に大人びてあまり遊んでくれなくなった兄貴に物足りなさを感じていた。

 そんな生活ぶりの中で鍈治は、当時の少年たちと同じように、水泳の古橋廣之進、ボクシングの白井義男、プロレスの力道山などに魅せられて身体を鍛え上げてゆく。
「将来なにをするにも身体が資本、屈強な身体を作るのは若いときだ」という、錠の教えに呼応してのことだったという。

 錠が日本大学の芸術学部演劇科に進学すると、鍈治はよく宮城から東京にある錠の下宿先に遊びにゆくようになる。久しぶりに兄弟で西部劇の映画を観にゆき、幼い頃を思い出した鍈治は、兄弟っていいなあ・・・・、としみじみ思った。
 この日大芸術学部傍にあった錠の下宿先で、その後の鍈治の運命を左右する出来事が起こったのはこの頃である。

 錠は「朝日新聞」、「読売新聞」などに掲載された、日活の映画製作再開による、第一期ニューフェイスの募集要項記事を仲間たちと凝視していた。映画俳優になるか、プロスポーツ選手になるか思案を重ねていた錠は、これは大いなるチャンスだと本能的に感じ取った。

 一九五三(昭和二八)年七月八日、日活株式会社・堀久作社長は、現下における日本の各映画会社の製作本数の減少、戦後弗不足による貿易不振、外国映画の輸入制限、劇場数(当時三千七百館)との需給関係に寒心を示し、伝来の歴史を活かし、自社による映画製作再開を発表する。これを日本の市場のみならず海外にも輸出し、弗不足の一端を補完し、しいては洋画の輸入を確保するという意だった。さらに、東京都調布に、敷地総坪数二万坪にも及ぶ撮影所の建設に着手することも伴わせて表明した。

 一九四一(昭和十六)年、太平洋戦争(大東亜戦争)に突入すると、日本映画は内閣情報局によって、軍国主義への敬仰、日本国家威信発揚の施策として国策映画へと趣を変える。
 しかし堀久作社長は、内閣情報局が映画配給機構を一括する、とされる映画法と興行取締規制に屈せず、既存の日活映画の上映権と興行会社としての継続を勝ち取った。
 そして終戦後、GHQ占領政策の一環として、日本映画はGHQの下部組織であるCIE(民間情報教育局)によって管理されることとなるが、映画法と興行取締規制は廃止された。
 日活は映画館の復旧と再開営業を迅速に決行し、「拳銃の町」「オクラホマ・キッド」「黄色いリボン」などの西部劇人気の波に乗り、アメリカ映画を積極的に受け入れ、直営館のすべてを洋画興行に転換させて利得を上げた。
 そして、時至れりと見ての映画製作再開の発表である。と同時に、日活は他社から監督、俳優、スタッフの壮絶な引き抜きを慣行する。これに対抗するべく日本映画大手五社(松竹・東宝・東映・新東宝・大映)は、人材の引き抜き、貸し出しの特例も禁止するという五社協定(五社申し合わせ)で、日活に総力挙げて対することとなるのである。

 錠の下宿先には、四人の飢えた若者が集まっていた。男たちは皆一様に同学年で、宮城県の高校を卒業し東京の大学に進学していた。
「受かれば映画俳優になれる。お前はどうする?一緒にやってみないか?」
「俺は・・・・、劇団四季で修行する」

 錠にそう答えたのは、菅原文太だった。
 結局、日活第一期ニューフェイスの試験を受験したのは錠だけだった。そして、八千人の応募者の中から見事一位で合格する。
「兄貴が映画俳優になったときは驚いた。俳優になりたいなんて一度も聞いたことがなかった。急に忙しくなったみたいで家にもあまり帰ってこなかったが、休日は絵を描いたり詩を創ったりしていた。スポーツも万能で、俺はなにをやっても兄貴には敵わなかった」
 それでも鍈治は明治大学に進学すると、身体だけは兄貴に負けないとばかりに、ボクシング部へ入部する。そして大学二年の夏休み、運命は静かに動き出す。

 一九五六(昭和三一)年、日活は「太陽の季節」(古川卓巳監督)を封切る。原作はこの作品で第三四回(一九五五年下半期)芥川賞を受賞した石原慎太郎氏である。前年、「太陽の季節」が文學界新人賞を受賞した際、日活はいちはやく映画化権を取得していた。戦後若者の風紀を塗り替え、既成概念を根底から覆し、日本の新時代を予感させたこの作品の映画化は、多くの若者を熱狂させ、映画製作再開後最高のヒット作となる。ここに登場したのが、その後の日活映画を大きく転換させることになる、原作者の弟・石原裕次郎である。
 原作にはないボクシング部員の役で出演した石原裕次郎は、その生まれもった天性のスター性と、今までの俳優にはない奔放ぶりが支持され、映画界のみならず日本中に新風を巻き起こした。その後主演スターとして、「狂った果実」(中平康監督)、「嵐を呼ぶ男」(井上梅次監督)などの爆発的ヒットで"石原裕次郎台風"は吹き荒れ、日活は完全復活を遂げ、映画黄金時代を迎えるのである。

映画オリジナルポスター(1957年)


「お前、映画に出演してみないか?」

 鍈治が錠からこう言われたのはそんな頃だった。
 鍈治は即座に断った。
照れ屋で柄じゃない。
人前で芝居するなんてとんでもない。
「芝居なんてしなくていい。ただ突っ立っていればいいんだ」
ただ立っていれば小遣い稼ぎにる・・・・。
よし、それくらいならできる。
 二十歳の鍈治は、日活撮影所の門をくぐった。

 映画は、一九五八(昭和三三)年十月二九日公開の「俺らは流しの人気者」(野口博志監督)で、鍈治は「街の流しⅮ」という役どころで出演(宍戸鍈治名義)した。錠も出演していたので心強かったが、撮影所の中はなにがなんだかさっぱりわからず、鍈治はセットをうろうろしていた。
「やっぱりやめとけばよかった・・・・。待ち時間が長すぎて煩わしい。気が短い俺には向いてないな」
 そのとき別の映画の撮影で、セットの隅でつまらなさそうな顔をしてひとりで座っている男がいた。鍈治はその男になにか自分と同じ匂いを感じ、思い切って声を掛けた。男はどこか哀愁を帯びた顔をしていたが、同性の鍈治から見ても、ハッとするような二枚目だった。
「つまらねえな」
 ふたりはすぐに意気投合し、その夜銀座に繰り出し、一緒に映画を観て酒を飲んだ。
 男は赤塚親弘と名乗った。
 この男こそ、後の赤木圭一郎だった。

赤木圭一郎 映画「拳銃無頼帖 抜き射ちの竜」(1960年)スチール写真

               つづく



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