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ちあきなおみ~歌姫伝説~35 復帰なき理由・後篇

 前回からのつづき

 そしてもうひとつ、ちあきなおみ「復帰なき理由」として私が思い浮かぶのは、歌謡界の時流というものである。
 当時(九〇年代)日本は、〝混沌と狂乱の時代〟と呼ばれた八〇年代から、バブル経済が衰退の一途を辿り、〝ジャパン・アズ・ナンバーワン〟という言葉に象徴された未曾有の好景気からデフレ時代へと突入していた。
 そんな時代模様の中、歌謡界では小室哲哉サウンドを筆頭として、音楽はアナログ時代からデジタル化され、コンピューターによる打ち込みサウンドが主流となり、安室奈美恵などが歌うダンスミュージックが人気を博していたのだ。そして時代はカラオケブームの全盛にあり、カラオケで歌いやすい歌が量産され、大衆はマイクを握りプロ歌手のように歌い、踊った。音楽ライブ会場では、聴衆は席を立ち、拳を突き上げ、汗をかき熱狂した。
 果たしてこのような音楽シーンの中に、本物の〝聴かせ歌〟が生き残ってゆく舞台があるのであろうか・・・・。歌魂を失ったかのような歌謡界への不安、その行末を憂い、このあたりが潮時であろう、との判断があったのではないだろうか、と思うのだ。

 ここで私の頭の中に、芥川龍之介氏の晩年における自伝小説、「或阿保の一生」冒頭の「時代」が去来するのである。
 その一節を引用してみたい。

 それはある本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい
本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベイ、イプセン、ショウ、トルストイ、・・・・
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでいるのは本というよりむしろ世紀末それ自身だった。ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、・・・・
 彼は薄暗がりと戦いながら、彼等の名前を数えて行った。が、本はおのずからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、ちょうど彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いている店員や客を見下ろした。彼らは妙に小さかった。のみならずいかにも見すぼらしかった。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
 彼はしばらく梯子の上からこう云う彼等を見渡していた。・・・・

 主人公の「彼」である作者は、自らに影を落とした封建時代という閉ざされた世界からの解放を願い、西洋文学の中に己が自由を見出しながら精神を高めてゆく。しかし、ふと下を覗くと、そこには近代西洋思想にはほど遠い、前時代的な日本人の現実があるのだ。そこに、自らの精神が踏みしめる土壌の喪失を見るのである。
 時代は大正デモクラシーによる憲政の王道を確立したが、度重なる金融恐慌や世界恐慌の影響により、軍国主義一色への途を辿ってゆく。そのような世情の中に、果たして浪漫主義である自己が地に足をつけ生きてゆくことができるものであろうか・・・・。

 ちあきなおみは、この小説の主人公である「彼」のように、いや、三十五歳の作者のように、歌手・ちあきなおみ帰り着くところの喪失を眺めていたのではなかったろうか。
 
そして私には作者の、
「人生は一行のボオドレエルにも若かない」
という言葉が、
「私は郷鍈治が喜んでくれるから歌っていた」という告白と重なり合うのだ。

 つまり、芥川龍之介氏にとって西洋文学が人生の欠落部分を補完してくれるものであったように、ちあきなおみにとって愛する人のために歌うことが人生を埋め合わせることだったのだ。しかし、母・ヨシ子を失い、郷鍈治という伴侶をも失ったちあきなおみは、その先の歌手人生に価値を見出すことはできなかった。

 このような仮説を並べながら思うのは、ちあきなおみのような歌手の価値判断とは、常人には掴み切れないものがあるということである。私はちあきなおみが活動停止後、復帰待望の声が渦巻く中にありながらも、「復帰はしない」という、その泰然自若としたブレのない姿に、鉄のような固い意志を感じていたものである。普通の人間であれば、断歌才能を比べれば、才能を選ぶものであろう。一度でもスポットライトを浴びた人間は、いつまでもその快感を捨て去るということは、なかなかできないものである。
 しかし、ちあきなおみはここで、自らの手で、歌手・ちあきなおみを葬ったのだ。それにはやはり、それほどまでに、歌への、人生への、純朴なる真摯な姿勢というものが重なって見えるのである。
 この、芸能人という人種にはあまり見当たらない高潔なる自重心、その潔さは、歌手を越えて、ひとりの女性としての生き様のあらわれであり、私は、人間とはかく生きるべきか、という教訓を得るのである。

「しかし、あまりにも惜しい才能だ・・・・。芥川龍之介にしてもちあきなおみにしても、その才能を自分で消してはいけない」

 思わず口にした私の前に、いつの間にかゴッド(友人)が立っていた。 

「でも、作品は残っている。それに、芥川龍之介も『侏儒の言葉』の中で書いている。『シェイクスピアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している』と」

 私はこの言葉に、妙に救われたような気分になったが、ゴッドが話のまとめに入ったのは、「そろそろ腰を上げなければ間に合わない」という、私への警告が含まれている。計画を立てて行動する癖のない風まかせな私ではあるが、今日だけは時間に従わざるを得ないのだ。
 歌と同じく人生とは生ものゆえに、決められた筋書きどおりに進んだところで、なにが起こるかわからないものであり、そこに退屈な日常というマンネリを破るドラマ性を感じようとする私の人生流儀は、これから敢えて望み、貰いにゆく〝なにごと〟に敗北を喫した。

「何時からだっけ?」

 その問いに答えるように、真っ暗になった夜のグラウンドを足早にゆくゴッドの背中を、私は急いで追いかけた。
               つづく


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