地域の産科、小児科がいなくなるわけ

石巻市が東部の医療資源不足に対応するため5千万の補助金を出すという石巻河北の記事を紹介した投稿がつい先日ありました。それに対し私は「医師であり経営者でもある開業医として、今石巻市東部で市が5千万助成金を出してどうにか可能性があるのは在宅診療所だけ。東部住民が求めている小児科、産科はほとんど可能性が無い」とコメントしました。



正直に言うと、在宅診療所すら可能性は低いのです。なぜなら今年から国が明らかに在宅推進から在宅縮小へ舵を切ったからです。手始めに在宅訪問看護の保険点数(医療分野における定価)が減らされました。国が保険点数を減らすというのは、国としてその分野の医療は縮小するという事です。我が国は基本保険診療ですから、保険診療の元締めである国が保険点数を下げる、つまりその分野の医療や看護介護は今後推進しないという事であれば、将来性を鑑みれば何処の医療機関も石巻市東部という人口減少地域で在宅診療所を新設するという判断はしないと思います。



しかしこれはまだ序の口です。小児科、産科はそれ以前の問題があります。



小児科は、そもそも小児を扱うわけですから、その地域で小児が確実に減少していくと見込まれる地域で新たに小児科をやるという判断は成立しない。確実に顧客が減っていくのに出店する店は無いのと同じです。石巻市そのものの人口が急激に減少している、震災前の16万から直近データで13万に減ったということは先日指摘しましたが、中でも人口減少が著しいのが東部です。人口が減るのに子供の数だけ増えるという事はありません。つまり小児科を展開するかどうかと言うとき、石巻市東部は確実に今後集客が見込めない地域という事になります。そこで民間が医療機関を作れるか。作れません。民間というものは最低限存続するだけでも利益を出さなければならないからです。



その上、小児科は極めてリスクが大きい。私自身、研修医だ他頃小児を診ていました。ところがある晩当直をしているとき激しい腹痛で小児が運ばれてきた。3,4歳。レントゲンを撮っても採血しても診断がつかない。しかたが無く深夜2時頃小児科医を呼び、病院に来て貰ったら腸重積でした。腸重積というのは成人ではまず起きません。その小児科医は私に「あなたが腸重積という診断が出来なかったのはあなたが小児科の実地をやっていないのだから当然です。しかしこれが腸重積だというのはよく覚えておきなさい」と言いました。しかしそれ以降、私は未就学児童は診療しないと決めたのです。小児科というのは内科医の知識では分からない、判断出来ないことがあまりにも多すぎます。子供は小さな大人ではないのです。まったく疾病構造が違う。そこそこ勉強して経験も積んだ内科医が新たに小児科に手を出すのは、訴訟リスクが高いことを考慮すればまったく不可能です。多くの医者が私と同じような経験をして、それ以来小児には手を出さなくなるのです。



産科は更に深刻な問題があります。既にコメントには書きましたが、2006年、大野事件というものが起きました。福島県立大野病院という、非常に辺鄙な県立病院で一人産科医として奮闘していた加藤医師が業務上過失致死で逮捕、送検、立件され、無罪が確定するまで2年数ヶ月被告の身を強いられたのです。加藤医師が逮捕され、手錠と手縄を掛けられ警察の車両に乗せられるシーンはテレビで全国に流れました。



その妊婦は前置胎盤でした。前置胎盤は出産に大きなリスクがあります。加藤医師はそれを説明し、妊婦とその夫に設備が整った町の大病院で出産するよう強く勧めましたが、妊婦も夫も「大病院は遠すぎる。地元に県立病院があるのだからここで出産したい」と言い張りました。その結果、加藤医師は少しでもリスクを避けようと帝王切開に望みましたが産児は助けられたものの妊婦は死亡したのです。



刑事事件は、警察の捜査、警察から検事への送検、検事が取り調べて裁判が必要と判断すれば起訴という、三段階を経ます。加藤医師はその三段階全てで「業務上過失致死相当」という判断で裁判に掛けられたのです。二年半以上の後、福島地裁で無罪判決が出て、それが確定したので加藤先生は今は医師として復帰していますが,加藤先生が負った心の傷は一生癒やされることは無いでしょう。



以来、日本産婦人科学会、日本医学会という日本の医療の全体を統轄する組織として、「一人産科医は置かない」という意志決定が為されました。それまで、田舎の小さな産婦人科で産婦人科医がお産に立ち会うのは普通だったのですが、その事件以来、全国の産婦人科の総元締めである日本産婦人科学会、さらには日本の医療、医学の総元締めである日本医師会、日本医学会が「一人産科医は置かない、やらない」という決定を下したのです。



いま石巻東部に出産を取り扱える医療機関を置いたとして、そこに何人の産婦人科医が配置出来るでしょうか。日本産婦人科学会そのものが「一人産科医は置かない」と決めているのです。当然宮城県の産婦人科をコントロールする東北大学医学部産婦人科もそうしています。地域のためにと情熱を注いで一人で困難な出産を取り扱った医師が業務上過失致死で逮捕、送検、起訴されたという事実は重い。日本という社会が地域医療に情熱を注ぐ医師に対してそういう態度を取るのであれば、そういう社会の要請には応じられないというのが、日本産婦人科学会だけでなく日本医師会、日本医学会、つまりは日本中の医者の総意なのです。



今石巻市東部に分娩に対応出来る医療機関を置いても、そこに赴任する医者はいない。一人もいません。申し訳ないけれども、日本全国47都県全ての産婦人科医に頼み込んでも、あの大野事件以来それを承知する産婦人科医は一人もいなくなったのです。

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