見出し画像

“現代のマーラー”久石譲のマーラーに感じた失望

サントリーホールで新日本フィル定期を聴いてきた。

久石譲: Adagio for 2 Harps and Strings(世界初演新作)
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調

指揮:久石譲

このコンサートはとても楽しみにしていた。私は久石さんを勝手に「現代のマーラー」と呼んでいる。作曲も指揮もする人は多いが、サロネンやスクロヴァチェフスキは「作曲もする指揮者」だし、ペンデレツキやオリヴァー・ナッセン、ジョン・アダムズらは自作を振っている印象が強い。
久石譲のようにベートーヴェンやブラームスなどの古典を定期的に振っている作曲家は案外少ないのではないか。

それだけに「作曲家目線でのマーラー解釈」を大いに期待したのだ。現代において作曲と指揮の二足のわらじを履く久石譲ならではのマーラー観があるのではないかと。

結果は期待外れだった。私の前に立っているのは現代のマーラーではなく、経験不足の指揮者だった。

それも無理はない。72歳のベテランとはいえ、オーケストラ指揮者としてのキャリアは短いのだから。

秋山和慶に指揮法を師事したらしいが、棒の振り方はかなり下手。
というのも作曲家がスタジオでレコーディングするときに複雑な指揮テクニックは必要ない。
しかし、マーラーのスコアは複雑だから、久石さんの情報量の少ない指揮で全曲聴くのはきつかった。

第1楽章は素晴らしかった。トランペットの山川さんのソロは完璧なまでに決まっていたし、その後のトゥッティのダイナミズムは「ショルティ/シカゴ響か⁉︎」と叫びたくなるくらいだった。

その後も第1楽章は目をつぶって聴けばヤンソンス/バイエルン放送響とかとそう変わらないのでは?と思うほどだった(実際聴いてないのに大袈裟ですね😅)。

管楽器がとにかくよく鳴るのだ。トランペットだけでなく、ホルン、トロンボーン、チューバも鳴りがいい。
木管奏者がベルアップで吹いていたのは楽譜の指示のようだが、カーチュン・ウォン/日本フィルもそうしてたかしら🤔

第1楽章のテンションの高さは特筆ものだったが、第2楽章から指揮者の実力が露呈してしまった。
音楽が冗長に聞こえてしまった。長っ!と何度も思った。

もともと冗長に書かれた音楽ならそれを誇張して表現することもあるだろうが、マーラーはそうではない。
第2楽章も第3楽章も何が言いたいのかわからない散漫な音の羅列だった。

いったいどういうリハーサルをして、どんな指示をしたのだろう。
こんな言い方をするから「辛口」とか言われるのだろうが、「スコアリーディングが甘い」と感じてしまった。

おそらく10回もこの曲を指揮してないだろうし、マーラーの交響曲はそもそも全曲振ってないだろうから仕方ない。

87歳のインバルがマーラー演奏の第一人者と目されるのは、全集録音やチクルスを何度も果たし、その都度解釈を深めてきたからに他ならない。

内田光子が「ベートーヴェンのピアノ・ソナタをうまく弾きたいなら、弦楽四重奏曲やフィデリオを聴きなさい」と学生に言っていたらしいが、実際に演奏する曲の練習ばかりしていても曲の理解は深まらない。

楽譜オタの高関健が来年シティフィルで5番を振るので行きたいと思っているが、自筆譜まで遡って改訂の変遷をくまなくチェックする彼のアプローチに比べて、今日の久石譲は楽譜の表面をなぞっているだけに聞こえた。

第4楽章は少しましで、こういうヒーリングミュージックっぽい美メロは得意なのかもしれないが(前半の自作もそんな感じだった。きれいな曲だとは思ったが、もう少し引っ掛かりがほしかった)、アダージョ・カラヤン風なきれいな音楽という感じだった。

私はもっと生々しい感情の発露が好きで、カーチュン・ウォンのアダージェットはそんな感じだった。
久石さんは弦楽器のビブラートがあっさりしていて、ノリントンのピュアトーンみたいな透明感のあるアダージェット。
岡本太郎が言う「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」の反対だった。

第5楽章はテンポさえ指示していればある程度何とかなる躍動的な楽章だが、後半に近づくにつれ分かりやすく盛り上がったので白けてしまった。

指揮者が指示したというより、オケが「不完全燃焼のまま終わってたまるか!」と燃えた感じ。
とはいえ指揮者の深い解釈を伴わない表面的なメラメラなので、深い感動からは遠い。

聴衆は案の定大拍手で、私は久石さんが引っ込んだタイミングで早々にホールを出たが、入口のところで東条碩夫さんを見かけたので、東条さんもいまいちだったのかもしれない(あるいは早く帰りたかっただけ?😅)

私は当初この記事を「“現代のマーラー”久石譲 マーラーへの挑戦状」というタイトルで書こうと昨日決めていたのだが、まったく挑戦になっていなかった。
作曲の方はアダージェットを意識して作られたのは明らかだったが、5番の指揮に関しては実力不足、経験不足を痛感させられた。

だって久石さんって太田弦さんと変わらないくらいの指揮者キャリアではないか?
作曲家として国際的な地位を確立しているから大御所感あるけど、今日の第2楽章・第3楽章の解釈は相当浅く感じた。

そして改めて思ったのは、私はこの曲の第5楽章だけを取り出してよく聴くが、この曲の肝は第3楽章や第2楽章なのだということ。
久石さんの指揮で聴いてると「なんて冗長で分裂した音の連なりなんだろう」と思ってしまう。
今日初めてマーラーを聴いた人はマーラーはそういう音楽だと誤解したかもしれない。

実際はそんなことはない。私がブルックナーよりマーラーが好きなのは、ブルックナーが開き直ったり達観しているのに対し、マーラーは煩悶しているからだ。

マーラーの音楽はとても人間くさい。宇野功芳は「マーラーは所詮人間世界の音楽。ブルックナーは宇宙の、神の音楽」とか書いていたが、人間を描いているからこそ素晴らしいのだ。

愛されたいと願う気持ちや様々なことへの慄き。
マーラーの音楽は人とのコミュニケーションで感じるさまざまな喜怒哀楽を掬い取っている。
ブルックナーはそうではない。ひたすら自分の中を突き詰めたような世界。

マーラーがどんな思いで複雑な音符をたくさん書いたのか、今日の演奏では全然わからなかった。
散漫で、冗長で、うるさく感じてしまった。

第1楽章はよかったんですよ!  新日本フィルは相当久しぶりに聴いたけど、西江さんのリード含めてレベルの高さを感じた。
都響も精度が高く感じるが、やや事務的に感じるときもある。
今日の新日本フィルにはそうした冷たさがなかった。

とはいえ指揮がうまくないし、オケの底力を全然引き出せていない印象だった。
久石さん、このまま指揮法を再び学んだりすることなくやっていくのだろうか。
曲の解釈が深まればそれでもいいのかもしれないけど。
世界を飛び回る売れっ子だから、一つの曲の楽譜と向き合う時間があまり確保できてないのではないだろうか。

作曲家兼指揮者ならではのマーラー解釈を期待していた私は失望させられた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?