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初めてのルネサンス音楽 花井哲郎のパレストリーナ

東京カテドラル聖マリア大聖堂で、ヴォーカル・アンサンブル  カペラを聴いてきた。

グレゴリオ聖歌 聖ペテロの教座のミサ固有唱
ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ
教皇マルチェルスのミサ
「鹿が泉の水を慕い求めるように」
「あなたはペトロ」(6声)
「めでたし 元后(サルヴェ・レジーナ)」(8声)

演奏:ヴォーカル・アンサンブル  カペラ

Superius:鏑木綾 小林恵
Contratenor/tenor:富本泰成 柳嶋耕太 渡辺研一郎 金沢青児
Bassus:櫻井元希 谷本喜基
Maestro di Cappella (音楽監督):花井哲郎

初めての聖マリア大聖堂。
初めてのヴォーカル・アンサンブル  カペラ。
初めての生ルネサンス音楽。

カペラや花井哲郎のことは以前から知っていて、いつか聴きたいと思っていた。

ルネサンス音楽もしかり。
バードのミサ曲は好きで、合唱団をしていたころに余興で少し歌ったこともあった。

クラオタでもバッハ以降は積極的に聴くがジョスカン・デ・プレの名前さえ知らない人も中にはいるのではないか😅

パレストリーナのこの曲はルネサンス音楽の傑作とされているから、そんな曲を日本屈指の古楽合唱アンサンブルで聴くのは入門としてうってつけだろう。

聖マリア大聖堂も行ってみたい場所だった。
合唱団のころにチラシを置かせてもらいに中に入ったことはあったが、コンサートを聴くのは初めて。

朝比奈隆はここでブルックナーやったんだっけ😅
あの宇野功芳でさえ「残響がありすぎてわけがわからなかった」と言ってたような…笑

コンサートの前に花井さんのレクチャーがあった。
毎回あるのかもしれないが、お喋りがうまい。
大学のときにルネサンス音楽の碩学・今谷和徳先生の西洋音楽史の授業(一般教養)を取っていたが、眠くて眠くて…😂

席は木の長椅子。1つの長椅子に2人座れるくらいの長さ。
前の長椅子との距離がかなりあるので(2mくらい?)、相当に広々とした空間だった。

花井さんのマイクの声もよく響く。銭湯で話してる感じに近い。

さて、時間になると演奏マナーの注意喚起のアナウンスなどもなく、黒服の7人がぞろぞろ後ろから歩いてきた。
今回は指揮の花井さん以外の6人が1人1パートを受け持つやり方だ。

客席に向かって若干斜めに置かれた大きな譜面台の譜面を全員で見ながら歌い始める。
その横で花井さんが指揮をするが、リズムを取って踊っているような指揮だ。

歌う人たちも大きな手振りを交えて歌っている。
同じ方向を見ているうえ、合唱は楽器と違って身体の動きがないから、そうしないと合わせづらいのだろう(自分の声の大きさやアーティキュレーションの変化を他の歌手に示している感じ)。

実際のミサの形式に従って歌唱されるから、パレストリーナのミサ曲は分割されて歌われる。
歌詞対訳と解説の載った無料とは思えない充実したパンフレットは開演後読まなかった。
パラパラ音がするし、演奏中に読んだところで感興が深まるとも思わなかった。
だから集祷文や使徒書朗読、福音書朗読のあたりは何を言ってるのかわからない状態で聴いていたが、今回はルネサンス音楽に慣れる程度でよいと思った。

合唱のハーモニーは実に美しい。ア・カペラなわけだが、オーケストラに負けない細やかな表現がある。
合唱指揮者でもあった宇野功芳は「合唱はオーケストラより上」と常々語っていた。

合唱団時代にアルノルト・シェーンベルク合唱団やポール・ヒリヤー指揮のエストニア室内合唱団を生で聴いたので、合唱音楽の奥深さは以前から知っていた。
重度のクラオタでも合唱団単体のコンサートに行ったことのある人はまだまだ少ないのではないだろうか。
合唱人口はそれなりに多いのだろうが(教育の場においても)、鑑賞人口は決して多くはないだろう。

ハーモニーの美しさは聖マリア大聖堂の豊かな残響によって際立っていた。
世界的建築家・丹下健三の設計である。
美輪明宏はコンクリート打ちっぱなしが大嫌いなので(墓石みたいに見えるのだろう)、丹下健三や安藤忠雄の悪口を一時期よく言っていた😅

パレストリーナの音楽、後半になるとやや飽きが出始めたのも事実。
音楽の色合いのグラデーションがそこまで広くない気がして、単調な感じが否めない。
ハイドンが苦手な人の心境だろうか😅

ただ、「教皇マルチェルスのミサ」が終わってからは2つのパートに分かれて、4人4人の8人合唱になったりする変化もあったので、聴き応えのあるコンサートだった。

初めての場所に行くと勝手が違うので不安になる。
国立能楽堂に初めて行ったときを思い出した。

年をとるとだんだん保守的になり、新しい経験を避けるようになる。
慣れないことをすると恥ずかしい思いをするリスクがあるからだ。

そうして、新しい経験を避けているうちに考え方が凝り固まり、時代遅れの物の見方になっていく。

年を取っても未知の環境に身を投じて、新鮮な思いを味わって、ときには恥ずかしい思いもしたいと思う。

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