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群衆がマスゲーム 新国立劇場「エウゲニ・オネーギン」

新国立劇場オペラパレスで、エウゲニ・オネーギンを見た。

【タチヤーナ】エカテリーナ・シウリーナ
【オネーギン】ユーリ・ユルチュク
【レンスキー】ヴィクトル・アンティペンコ
【オリガ】アンナ・ゴリャチョーワ
【グレーミン公爵】アレクサンドル・ツィムバリュク
【ラーリナ】郷家暁子
【フィリッピエヴナ】橋爪ゆか
【ザレツキー】ヴィタリ・ユシュマノフ
【トリケ】升島唯博
【隊 長】成田眞

【合唱指揮】冨平恭平
【合 唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京交響楽団

【指 揮】ヴァレンティン・ウリューピン
【演 出】ドミトリー・ベルトマン
【美 術】イゴール・ネジニー
【衣 裳】タチアーナ・トゥルビエワ
【照 明】デニス・エニュコフ
【振 付】エドワルド・スミルノフ
【舞台監督】髙橋尚史

最初にざっくり感想を言うと、歌手と指揮者とオーケストラのレベルは高く、特に不満はなかった。

オーケストラはピアニシモの場面でも情感のこもった繊細な響きを出していた。形だけの弱音ではなかった。

不満があったのは演出と美術。理由は後ほど詳しく述べる。

開演前、東京交響楽団のマナーの高さに驚いた。

もともと「推し」のオケではあるが、マナーの注意喚起アナウンスの直前にピタッと練習をやめたのだ。

「こうもり」のときの東京フィルなんて音出しまくってて、アナウンスが全然聞き取れなかったからね。
オケがそんな態度でいたら、上演中に携帯が鳴っても仕方ないよね😓

今回はその「東響効果」もあったのか、時計のアラームが鳴り響いたのが1回あっただけで、飴玉や携帯の音がなかった。

長丁場のオペラでは極めて異例。
場内アナウンスは大事なので、練習はそれまでに終えるべきではないか。

さて、「エウゲニ・オネーギン」(「エフゲニー・オネーギン」の表記の方が馴染みがある気がするが)は初見。
CDでも聴いたことがなかった。有名なポロネーズも多分聴くのは初めて。

いつものように、音による「予習」はなし。初演に接するような新鮮な気持ちで見たいので。
恒例のWikipediaによる予習はした(これをしておくと感想が書きやすい)。

しかし、休憩入れて3時間もあるのに、つまんねー話だね😅

パッとしない女性から告られて雑にフった男が数年後に彼女に再会したら、色気のある人妻になってて、慌てて迫ったら拒絶されて「俺の人生、惨めだ!」って。笑っちゃったよ🤣

こんなアホらしい話なのに、ユーモアシーンがなくてシリアス一辺倒だから息が詰まるのよ😂
やはり芝居は緩急があった方がいい。

「魔笛」なんか荒唐無稽だけど、何度でも見たくなる面白さがある(音楽がいいという理由が一番だが)。

「エウゲニ・オネーギン」の音楽は自分にはまあまあ面白いというレベルだったが(中の上くらい)、このストーリーをまた見るのは勘弁って感じだなぁ😅

第3幕のオネーギンは無職の独身なんだよね?

それでよくタチヤーナに言い寄るよね?

まずは仕事しろって😅

チェーホフの『三人姉妹』のラストはこんな感じ。

イリーナ「やがて時が来れば、どうしてこんなことがあるのか、なんのためにこんな苦しみがあるのか、みんなわかるのよ。わからないことは、何ひとつなくなるのよ。でもまだ当分は、こうして生きて行かなければ……働かなくちゃ、ただもう働かなくてはねえ!(以下略)」

チェーホフ『三人姉妹』(神西清訳)

このイリーナの覚悟とはえらい違いである。

オネーギンには全然感情移入できませんな😂

先ほど、演出に不満があると書いたが、一番の不満は「群衆(合唱団)の扱い」である。

私のオペラ評?が他の人と毛色が違うとすれば、演劇的視点が強いということだ。

私はオペラは全然本数見てない。大半は新国立劇場で見ていて、外国のオペラハウスは大昔に2つだけ。

ただ、最近はめったに行かなくなったが、10代のときから演劇(ストレートプレイ)は数多く見てきたので(歌舞伎や能も)、そのへんは普通のクラシックファンより蓄積があるかもしれない。

私がたくさん作品を見たことのある蜷川幸雄が「群衆はマスではいけない」ということを常々言っていた。

当たり前だが群衆であっても一人一人の人生があるので、群衆として集団で動くのではなく、一人一人が自律して動いているように見えなくてはならない、ということだ。

今回の「エウゲニ・オネーギン」はそれとは真逆で、完全にマスゲームだった。
日体大の「集団行動」かと思っちゃったよ😅

第2幕第1場では、幕が上がるとヴェール越しに舞台が見え、大勢の合唱団員が蝋人形のように固まっている。

しばらく音楽が進み、ヴェールが上がりきったタイミングで人物が一気に動き出すという演出。

わかってはいても蝋人形に見えるくらいの硬直ぶりだったのでびっくりさせられたのは事実だが、曲芸的なあざとさを感じなくもなかった。

レンスキーがオネーギンを詰るシーンでは、群衆全員が首をカクカク左右に動かし始める。

第1場の最後では中央に群衆が集結し、最後の音と共にドヤッ!とばかりに顔をこちらに向けたので、そのわざとらしさに白けてしまった。
実際お客さんも感動するより呆気にとられたのか、拍手が起きるまで少し間があった。

蜷川幸雄の教えに頼らなくても、群衆を勝手にマス扱いして「集団行動」させる意図が私にはわからない。

本来それぞれの人生を生きてるはずの人物なのに(ラーリナが招いた近隣の地主とその家族、縁者たちらしい)、自分の意思がなくて、誰かに訓練された人たちに見えた。

セットが後半に行くにつれてしょぼくなったのも興醒め。

第1幕のラーリン家の庭やタチヤーナの寝室はリアリティもありつつ洗練さを感じさせるセットだったが、途中で予算が足りなくなったのか、ギリシャの神殿みたいな装置をいくつものシーンで使い回し。

第3幕第2場の「グレーミン公爵邸の一室」なんか、後方にタチヤーナのベッドがあるだけで、2/3は何もない平面。

さすがにそれだと殺風景だと思ったのか、タチヤーナとオネーギン二人の服が脱ぎ捨てられてあったが、それでもしょぼすぎて泣けた😂

第3幕第1場「サンクトペテルブルクの大舞踏会」のシャンデリア3つも安っぽかったなぁ。

グレーミン公爵のアリア「恋は年齢を問わぬもの」はうまかったけど、やたら長くて、そのあいだ他の群衆はただ固まっているという不自然なシーンだった(一人芝居に近いシーンだから他の演出家でもそうなるのかもしれないが)。

今回の圧巻は第1幕の「手紙の場」かな。

タチヤーナが「恋に恋してる」って感じで、そこまで入り込めはしなかったけど、エカテリーナ・シウリーナの歌唱は素晴らしかった。
舞台左右のカーテンが風に煽られて、タチヤーナがその間を行き来して煩悶する演出もよかった。

ちなみに今回のキャスト、指揮者とオネーギンとグレーミン公爵はウクライナ出身、演出家と他の主要キャストはロシア出身である。

芸術の前に国境はない、と言いたくなるけど、カーテンコールで手を繋いでいる出演者たちの胸中はそんな綺麗事では済まなかったかもしれない。

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