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現代社会における不平等。不平等くらいがだらだらできていいのでは?

現代社会は「平等」を大切にしています。
「性に対しての平等」「年齢に対しての平等」といった価値は、現代社会が重視する基本原則です。
これらの平等を追求することは、多様なバックグラウンドを持つ人々が公平な機会を享受し、自身の可能性を最大限に発揮できるようにするために不可欠だとは思います。しかし、これらの価値を実現しようとする過程で、実力主義社会の構造的なジレンマが浮き彫りになります。

性別平等の追求は、職場における男女平等など、多くの分野で進歩を遂げています。これにより、性別に基づく偏見や障壁が低減し、より多くの女性が様々な職業においてリーダーシップを発揮する機会を得ています。
一方で、このような平等の追求が、個々人の実力や能力を見る前に、性別という外的条件を優先する動きにつながることもあります。
たとえば管理職の女性の割合を50%にする。これ自体は好ましい取り組みだと思いますが、極端な話、管理職を10人選ぶ必要がある会社の女性社員が5人しかいなかった場合、女性社員全員が能力にかかわらず管理職になるということになります。
性別を基にした採用や昇進のクォータ制など、新たな形の不平等が生まれる可能性があるのです。

では「5人しか女性社員がいない会社がおかしい」といっても、女性が就きたがらない職業は存在しますよね?「この仕事は素晴らしい」という風に洗脳して就かせて社員のバランスをとるのは私はいいことだとは思いません。

年齢平等についても同様のジレンマがあります。年齢を理由にした差別を排除し、年齢に関わらず個人の能力と実績で評価することの重要性が強調されています。
年功序列の廃止ですね。

これも「実力がある人」「向上心がある人」にとっては好い文化かもしれないですが、そうでない人、「そこそこの給料をもらって普通に働きたい」人にとっては年功序列制度は素晴らしい文化でしょう。
それに、年功序列制度がない場合、その会社に長くいるインセンティブがなくなるため、愛社精神もくそもなくなります。
行き過ぎた愛社精神はくだらないと思いますが、とはいえ、自分の名前を名乗るときには○○の~~です、と名乗る以上、○○にはある程度愛着があったほうがいいでしょう。
組織で働く以上、ある一定の会社という共同体に対しての何かは必要です。

とはいえ、就きたい仕事に就けるという平等自体は私もよいことだとは思います。
性別にかかわらず実力で、年齢にかかわらず、新卒も既卒も第二新卒も60歳も関係なく実力で、こういった現代社会が目指す実力主義は、一見すると公平で理想的な制度に思えます。

年齢、性別、資格などの外的条件を取り除き、純粋に個人の能力や実績のみで評価される世界。

ただ、忘れてはいけないのは「実力」がある人にとっては好いことという事実です。
このような社会がもたらす圧倒的な競争とプレッシャーは、実際には多くの人々にとって耐え難いものとなり得ます。

こういった外的条件は「言い訳」に使うことができました。

「俺もっと給料欲しいんだけど、もう50歳でどこも採用してくれないからさ」
「私、絶対に実力あるんだけど、女だから課長に昇進できなかった」
「俺、4年生大学出てないから……」
「私、……」
などなど。

こういった外的条件がなくなると次のような社会になります。
「お前が転職できないのは50歳という年齢ではなく実力がないからだ」
「お前が昇進できないのは女性という性別ではなく実力がないからだ」
「お前が就職できないのは学歴がないからではなく実力がないからだ」

初めのうちは「言い訳」を探すでしょう。
もしかして学歴フィルターのようなものが裏であるのでは?表向きは平等なだけで裏では実は?などなど。

行き過ぎると陰謀論になりますが、それでもきちんと全部公開されて、ただただ能力・実力がなかったからという結果だったら?

人はくじけるか、ありもしない陰謀論にすがって言い訳をし続けるのでしょう。

そうでなくても現代社会は便利になった結果、どんどん言い訳ができなくなってくる社会です。

例えば「デジタルイラスト」
昔、と言っても10年前くらいまでは、「デジタルアートを描くためのツールがない」という理由が、創作活動を行わない言い訳として成立していました。

「パソコンがないから」が1位
「お絵かきソフトが高いから」、「教材がないから」辺りも理由になるでしょうか?

しかし今日では、高性能なスマートフォンやアプリケーションが広く普及し、誰もが低コストでクリエイティブな作品を制作し、インターネットを介して発表することが可能になりました。
スマホの画面が小さいというのであれば、5万円もあればタブレットも購入できますし、クリスタだって月額480円、年額3,000円でProが使えます。

言い訳ができないわけです。
「描かないのは単に怠惰だから」という厳しい現実をもたらし、言い訳の余地を大きく狭めています。

例えば「動画撮影」

昔はビデオカメラを購入するのは大変でした。
機材自体も高かったですし、視聴環境もビデオカメラのモニターや結局パソコンを購入しないといけませんでした。動画の編集ソフトも、性能的に動画の編集ができるPCなどとても高価で「少しやってみたい」で手を出せるようなものではありませんでした。

それがスマホで動画が撮れますし、スマホで動画の編集もできるようになりました。
動画編集のPCも10万円程度出せば十分快適に編集できるPCが手に入ります。
10万円は安価ではないですが、コンビニバイトの時給も上がった今、土日8時間入れば1か月で購入できます。

昔はそもそも性能が今とは比較にならない程度に低かったです。
私の年齢でもギリギリ聞き覚えのある「インテルハイッテル」のCMは、2008年から2013年にありました。
2009年に発売された「Core 2 Duo E7600」というCPUの性能は「1202」という数値です。最近販売された「Core i7-14700」というCPUの性能は「48714」という数値です。

そもそも現代のスマホは1990年代のスパコンよりも1秒当たりの演算数が多いとも聞きます。いい時代ですね。

教育の分野でも同様の事例が見られます。オンライン学習プラットフォームや無料で利用できる教育資源が豊富に存在する今日、知識を得るための障壁は大きく低くなりました。理論上、誰もがいつでもどこでも学ぶことが可能です。
教材もKindle UnlimitedやYouTube、Udemyといった学習プラットフォームなど、枚挙に暇がありません。

これは、表面上は機会の平等を増やしたように見えますが、同時に個人の内面に強いプレッシャーを与える結果となっています。

シンプルに言い訳ができません。

機材がないから=購入できる
学習方法がないから=いくらでもある
性別、年齢、学歴=関係なくなる。

「平等」を謡う人は本当に自分に自信があるのでしょう。
素直にすごいと思います。

ただ、私の観測範囲ですが、「平等」を求める声の中には、皮肉なことに、その平等が実現した場合に最も苦労しそうな人々が含まれていることがよくあります。
社会的な支援やアフファーマティブアクションの恩恵を受けている人々が、平等を訴えることで自らの利益を損ねる可能性があります。
彼らは、自分たちが特定の支援を受けているという事実を見過ごし、全ての人に等しく厳しい基準を適用すれば、実は自分たちの立場が不利になることに気づいていないのかもしれません。

さらに「だって〇〇だから仕方ないよね」と心の均衡守ってた人はそれすら許されなくなり、それでもSNSを通じてその世界でキラキラしてる人は目に入ってくきて、認知的不協和(酸っぱい葡萄)でその対象すら嫌いになってしまう、そんな世の中になっていくのではないかと思ったりしています。

「○○のせいだから俺はできない」という外的要因に言い訳を求めることができる今の社会のほうが生きやすいんじゃないかと、あまり能力の高くない私なんかは思ったりします。

おまけ

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