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ある昼下がり

「美味いチキン南蛮といえば◯◯なんだよね」
話好きの先輩の声がする。パソコンから顔を上げるとどうやら私に話しかけているらしい。

「◯◯ってどこにあるんですか?」
聞けば毎日通っている通勤路、そんなお店あったっけ...?と思い巡らしつつも店名をメモる。
「いや、汚い店なんだけどさ、美味いんだよ。ラーメンもあってさ。ただ量が多すぎるんだよね」

帰り道、教えられた場所には看板が剥げて店名もよくわからない小さなアジトのような建物が佇んでいた。

そして日曜日の昼、私はこの列に並んでいる。
何なんだろう、この意外な展開は。開店30分前にして長蛇の列ができている。経営してるかも怪しげな店の横を車が何台もゆっくり中を伺いながら通る。
「すげえ、もうこんなに並んでるじゃん、今日は無理だわ」
諦めて通り過ぎる若者達もいれば、列の後ろに新たに加わる者も。ふと、先日読んだ中村文則氏の『列』を思い出す。

〜ひたすら動かない列に並ぶ。その手には自分が何の目的で並んでいるのかが記された整理券を握りしめて  中村文則『列』

私が整理券を握っているとしたらこう書かれていることだろう。
『先輩との和やかな話題を作る目的』と。

小さな店に一度に入れる人数はごく限られている。前の人数からすると順番が回ってくるのは2回目の入れ替わりくらいか。
待つのはあまり苦にならない。カバンの中から文庫を取り出す。伊坂幸太郎氏の殺し屋シリーズ、1冊読めるかもしれない。

急に前の何人かが列を離れた。すかさず後ろが詰めてくる。中村氏の『列』と同じ状況だ。後ろの人々の口角はみな上がったのだろうか..などと思いつつ文庫に目を落とす。

後ろの人が携帯でぼそぼそと話している。
「ダメだったのか?じゃ明日に持ち越しだな。いつも準備が足りねえんだよお前は」
何だか不穏な空気だ。ちらりと振り返るとコワモテのおじ様が並んでいる。再び文庫に目を落とす。

なおも話し声はボソボソと続いている。
「このあと飛行機の手配をしてくれ。荷物を持ち込みてえんだ。液体だからな、慎重にしねえと」

地元の方じゃなかったのか。文庫の殺し屋の文字が踊る。伊坂作品を読んでいるから変な想像をしてしまうんだなと可笑しくなる。連れは無心に音楽を聴いているのでこの会話は聞こえてないらしい。

「あとな、液体が持ち込めるか確かめておくんだぞ。預けるんじゃねえ、機内持ち込みでだ。大丈夫、ライターはこの前一つは持ち込めたから」

ドスの効いた声にだんだん不安になる。これはもしやホンモノではないだろうか。
隣で妻らしい女性が面倒くさそうに初めて口を開く。「そんなの手荷物で預ければいいでしょうに」

電話をすでに切ったおじ様のいくらか気弱な声が聞こえてくる。「だっておまえ、荷台が回ってくるのを待ってなきゃいけないのが俺はイヤなんだよ」

しばしの沈黙。この人もどこかの恐妻家と同じなのだろうか。周りの人達も静かだったのできっとこの会話を聞いていたにちがいない。

動きのない列。量が多いって先輩が言ってたから、先に入った人達もそう早くは完食できないのだろう。

「ちっ、間に合わねえ。うどんのつゆをどっさり買ったからな、持って帰りてえんだよ。こっちのは美味かったよなぁ」と話しながらおじ様と妻は列を離れていった。

飛行機に持ち込みたい液体っていうのはうどんのつゆだったのか...とふわりと気が抜ける。
テレビの取材で本県の美味しいチキン南蛮の店やうどん屋さんの紹介が全国区で放送されたらしい。どうやらグルメなおじ様だったようだ。今度来られた時はこのお店で食べられるといいなぁ。

列に並んでいるのはその放送を観た人達なのだろう。テレビの影響はまだまだ大きい。
そうこうしているうちに前は進み、ようやく中に入って連れとチキン南蛮定食とラーメンを注文しシェアする。
意外にもすっきりとした店内で食べる話題のメニューは想像以上に量が多く、食べ盛りの高校生男子がやっと食べられるくらいかもしれない。

月曜日になったら「ホントに量が多くてびっくりしました。美味しかったです!」とだけ先輩には報告しよう。列の話はnoteに書き留めるだけにして。

最後に大好きな伊坂作品『マリアビートル』を原作とする映画、『ブレット・トレイン』の主題歌を。

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