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『フェラーリ』栄冠の代償、速さの対価

『Ferarri』(2023年)★★★・。

公開:2023年12月25日(北米)
公開:未定(日本)
IMDB | RottenTomatoes | Wikipedia

実話に基づく人物の生涯を追うのでなく、1957年のひと夏に物語を絞ったのは『フェラーリ』の切り口の肝。

伝記ものが数十年分のめぼしい転換点を切り貼りするのとはまた違った、登場人物たちのスナップ写真を見ているような鑑賞感がある。

2時間あまりで、元レーサーで起業したエンツォ・フェラーリ(アダム・ドライバー)の二重生活、直面する経営難とテコ入れ策、共同経営者であり妻のラウラ・ドミニカ・ガレッロ・フェラーリ(ペネロペ・クルス)との愛と対立、そして1,000マイルのイタリア横断耐久レース「ミッレミリア」への参戦と決勝の行方を語る。

そんな窮状だらけな物語の底流を成すのは、前年に亡くなったばかりの一人息子、アルフレード(=ディーノ)の存在。そして横軸を貫くのが、エンゾ・フェラーリの勝利への執念だ。使命感に燃え、私生活の崩壊ぶりも顧みない男を描いてきたマイケル・マン(『ヒート』『インサイダー』)の十八番とも言える題材と言える。

「車を売るためにレースに出るフォードではなく、レースで勝つために車を売るフェラーリ」ー。

レーサーたち相手に「死なばもろともでいけ」「カーブでの勝負に命を賭して競り勝つ覚悟のない者はいらない」と啖呵を切れるのは、レーサーの経歴を持つ起業家にしかできない芸当なのだろう。ひと癖もふた癖もある一流のレーサーたちを相手にして、そこまでの圧をかけられるエンツォと彼らの人間関係が興味深い。

作品全体の看板はアダム・ドライバーだが、屋台骨はむしろペネロペ・クルスの迫真の演技と、マイケル・マンの光る演出。

なにせパフォーマンスでは、イタリア人の物語を英語劇で貫く違和感が否めない。『ハウス・オブ・グッチ』に次ぐイタリア人役とはいえ、やはりドライバーのイタリア訛りは…気が散る。シァイリーン・ウッドリーはしっかりと役目は果たすが、どうまかり間違ってもイタリア人には思えず、目ているのがつらい。

そこへきて、スペイン人とはいえ少なくとも心理的に近似値のクルスは、凛とした肝っ玉母ちゃんぶりが炸裂していて、アクセントなどどこ吹く風。登場するどのシーンもとことんさらっていく当たり役だ。

なおピエロ・タルッフィ(パトリック・デンプシー)のアクセントも大概かと思えてしまうが、要所でベテラン感をしっかりと出すのが粋。若さで猛進するアルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵を演じるガブリエル・レオーネほか、その他のキャストにも違和感なく馴染めるのは安心材料。

そして演出面。

マンには二面性がある。かっちりとカメラを据えた大人しいシーンも多いが、要所で動きを絶やさず、それでいて過度に見せつけないカメラワークがある。

印象に残るのは、中盤、レーサーたちがマシンに試乗する吹き抜けのシーン。ピエロが乗り入れてくる冒頭から「灰皿がないのが気に入らない」などと文句をいうピエロとやり合うエンツォ。そのあと、後続のレーサーたちが一台、また一台と停車する。その一連のショットが純粋にカッコいい。(下記のクリップはシーン途中で切れるのでご留意を)

ミッレミリア開催中のピットイン時のシーンも良い。レーサーの食べかけのバナナをエンジニアが受け取り、近くで観戦している子どもに声をかけると、戦利品として喜んで受け取るひとコマ。当時のレースの息づかいが感じられる、細やかな演出。脚本にどう書かれていたのかが知りたくなる。

レースやクラッシュの描写は言わずもがな。冒頭のカットバックが続くシークエンスも手に汗握る。いずれも多少盛っている印象もあるが、クラシックカーと技術者たちのそれぞれの勇姿には惚れ惚れする。後半、レースで凄まじい展開も待ち受けているので、目が離せない。

人間性に欠損のある人物を描くのが映画というものだが、背負っているものの重さを見失わない作品こそが光る。史実への脚色度合いが気にはなるが、その点は生き証人の言葉を聞いて溜飲を下げるしかないか。

清濁併せ呑むマイケル・マンらしい題材として、罪深くも後押ししたくなる男と女の物語。

(鑑賞日:2024年1月6日 @Regal Irvine Spectrum)

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