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今回の公転について

全ての問題を解決するための冴えたやり方があるはずだ。
そんなことを考えてしまう人は、遅かれ早かれ問題だらけの人生を送ることになる。もうすでに問題だらけの人生だからそんな考えに行き着くのかもしれない。どちらにせよ、銀の弾丸の存在を信じてやまない人の人生はかなり悲惨なものだ。
そうはなりたくない。けれども、自分の人生がそうではないと言い切れる確かな根拠は存在しない。そのことがとても怖い。

生きている実感を得る過程で、その行動が目的に転じてしまうことがよくある。その反転を再び正転に戻すのには相当な労力が必要になる。反転は何度も起こる。

「もういいや」と思ってしまうことがある。「もういいや」と思ってなんとなく生活することは楽で楽しい。楽しいから、それに抗おうとすれば相当の辛さが伴う。どうでもいいけれど「楽で楽しい」ってかなり読みにくい。「ラクで楽しい」と書けば多少読みやすくなるけれど、楽をラクと表記すると脳細胞が死ぬ音が聞こえてきそうなので楽をラクとは書きたくない。ここまででもう3回も楽をラクと書いたしこれで4回になった。猛スピードで頭が悪くなっている感じがする。

ところで脳細胞が死ぬ音って何となく「……ぷち……ぷち」のような気がするけれど、これはたぶん僕が脳細胞についての知識を持ち合わせていないがために「小さくて水分を含んだ何かが破壊される音」が当てはめられているだけに過ぎないのだろう。
そういうふうに、ぜんぜんわかっていないことを、あたかも元から知っていたかのように錯覚しながら世界を見ている。だからたまに「自分は本当は何一つわかっていないのでは?」と考えてしまってとても不安になる。そしてそれは、たぶん正しい。
僕は何も理解していない。もしかしたら理解する気がないのかもしれない。ものごとを理解しようとするのは面倒臭いし、理解を試みたところで理解できるはずがない。
そういう無力感から来る諦めが心と体に染み付いてしまって、もはやそれなしでは自分ではないのではないかとさえ思えてくる。つまりアイデンティティにまで無力感と諦観の念が侵食してきている。
これは結構、かなり、ナルシシスティックだ。

綴りがnarcissistなのでどう読んでもナルシストではなくナルシシストだし、narcissisticであればナルシスティックではなくナルシシスティックである。でも口に出すときはいつも「ナルシスト」だ。その言い方が広く膾炙しているからだし、悪口としての攻撃力が高まるからだ。
「おまえほんまナルシストやな!」は滑らかだが「おまえほんまナルシシストやな!」はやっぱり途中のシの繰り返し部分で引っかかって勢いが弱まる感じがする。

閑話休題。
基本的にはだらだらしていたいし、だらだらしているうちに一生が終わってくれればそれ以上の喜びはない。けれども本当にそれでいいのかと思わなくもない。しかしそれこそが、自分が銀の弾丸の存在を信じているかもしれないという疑念の出どころだ。

怠惰でありたいけれどその勇気はない。そういうジレンマに苛まれて続けている。創作はこのジレンマの解消に割と役立つ。そのために創作をしているわけではないけれど。しかし実際に解消されているのかどうかはわからない。色々こねくり回しているから矛盾が解消されていくような気がしているだけで、実際は何の関係もないのかもしれない。吊り橋効果と同じだ。不安定な足場のドキドキをロマンスのドキドキと勘違いするみたいな。ちなみに吊り橋効果の実験が行われたCapilano suspension bridgeは入場料を払わないと渡れないし、冬はセンスの悪い電飾が巻き付けられている。ドキドキするどころか萎えてしまうんじゃないか。自然の中のものに対して電球でライトアップをする行為がどうしても好きになれない。絶対に噛み合わない何かがある。やっぱりライトアップは都市に限る。都市は明るければ明るいほどいい。

何をすればいいのか、どの方向に進めばいいのか、今やっていることはおおよそ正しいのか、全然わからない。何もわからない。何もわからないまま、今までの人生で一番の速度で一年が過ぎていった。ずっと足元がぐらついている感覚がある。
この不安定な足場がいつまで持つのか。このまま進んでいいのか。一旦立ち止まって足場を固めるべきなのか。
「どうすればいいのかわからない」では済まされないところまで来ているのに、いまだにどうすればいいのかわからない。
わからないという状態に少しずつ耐えられなくなってきている。これは由々しき事態だ。

足場を支えていた物語を読み尽くしてしまった感じがする。作者の気持ちを考える問題を解き尽くしてしまった気がする。
この先の展開を自分で考える問題を解くフェーズに入ったのかもしれない。物語を書かなければならない。ただ、物語は頑張って書けるものではない。技術とセンスと今までの積み上げが必要になる。足場が不安定なのでは話にならない。

僕はかなり不安定な状態で、けれども他の人に比べれば割と自由な状態で生活している。そういう生活をしていて気付いたのだけど、自由な状態でいるとものすごく精神的に負荷がかかる。これはほぼ全ての責任が自分にのしかかっているからだ。自分の行動一つ一つの結果を誰のせいにもできないというのは、想像以上の重圧だ。もっと自由な状態になりたいけれど、それに耐えうる強靭な精神を自分が持ち合わせているとは、少なくとも今は思えない。
色々なことを誰かのせいにしたい。自分のせいではないし、責任の所在は自分以外の場所にある、自分がコントロールできない場所にある。そう思いたい。心の底から。

行動力がありますね、と言われることが増えた。
違う。思いっきり逃げているだけだ。
向上心がありますね、と言われることも増えた。
違う。思いっきり追い詰められているだけだ。
あなたは僕を褒めてくれるけれど、その度にものすごく大きな嘘をついているような気になる。
あなたの方がすごい。僕はあなたのように人と接したいし、あなたのように動きたいし、あなたのように物を見てみたい。あなたが呼吸をするようにできることが、僕には何一つできない。

「ボクはね、たまに自分がどうしようもない、愚かで矮小な奴ではないか? ものすごく汚い人間ではないか? なぜだかよく分からないけれど、そう感じる時があるんだ。そうとしか思えない時があるんだ……。でもそんな時は必ず、それ以外のもの、たとえば世界とか、他の人間の生き方とかが、全て美しく、すてきなもののように感じるんだ。とても、愛しく思えるんだよ……。ボクは、それらをもっともっと知りたくて、そのために旅をしているような気がする」

時雨沢恵一. 『キノの旅 - the Beautiful World-』, 電撃文庫, 2000.


年末年始は文章を書いて過ごすことが多い。何か目的があってやっているわけではない。年末の大掃除中にたまたま漫画を開いてしまって読み耽ってしまうのと同じような感じだ。やるべきことがあるのに、一旦中断してどうでもいいようなことに時間を使っている。
けれども一つ確信を持って言えるのは、後になって「あのとき時間を使って文章なんか書かなければよかった」とは決して思わないだろうということだ。
ノープランでただ頭に浮かんだ考えを次から次に出力してゆくのは楽しい。ノープランゆえに文章には体裁がないし、繋がりも曖昧だし、質のいい文章ではない。けれども書くことは楽しい。僕は今こうして文章を書いているのがものすごく楽しい。今楽しい。今楽しいなら、やった方がいい。楽しさを上回る後悔を、僕は今までの人生で一度も経験したことがない。楽しければ他の全ては些細な問題になる。シンプルで馬鹿みたいだけれど、これは一つ真理だと思う。
ちなみに今僕はものすごく甘いチョコチップクッキーをものすごく甘いフレンチバニラコーヒーで流し込みながらこの段落を書いている。砂糖でハイになっていて、どんどん頭の中がポジティブになっている。だから「楽しければオールオッケー!」みたいな考えになっている。
僕の考えなんてものは、存在しないのかもしれない。いくつもの因果が関係した結果というあまりにも壮大で理解が及ばないものに対して、何か矮小な枠を通して見ることであたかも自分の考えなるものが存在する気になっているだけなのだろう。「脳細胞が死ぬ音は "ぷちぷち" 」と同じ理屈だ。

結局僕はなにもわからない。けれども「なんとなくわかっている体」にするための枠組みを持っているし、取り扱い方にはそれなりに慣れているつもりだ。よくわからないものごとに対してその枠を使ってみることを、意味付けと言ったりする。
全てのものに意味はないとよく言うしそれは事実だが、だからといって意味付けから逃れることはできない。僕もあなたもどうやったって意味を求めてしまうし、意味がない世界に耐えられるほど強靭であり続けることはできない。

一年が終わって次の年が始まる。それは誰かが地球の公転周期に対して意味付けをした結果で、僕らはその意味の上で生活している。別にそこから脱する必要はない。重要なのは、例えばこの一年とは何であるか、次の一年とは何であるか、何になり得るか、そういう意味付けを自分で行うことを決してやめないことなのだと思う。
自分で意味付けをすればするほど、人生の中の時間は自分のものになってゆく。最終的にはそれが生の実感を得ることに繋がるのだと、今のところはそう考えている。
もし銀の弾丸があるとするならば、それは「自分のために自分で意味付けをすること」なのかもしれない。

望んでこうなる だが 何かが欠けて何が欠けて 何かが
分からないフリしてまた歩く人のフリ見て見ぬふりしてブレる
あいにく他人の幸せに共感は持てない病気の一種不治の病
One time on my mind私は私に従う

唾奇 2018年 アルバム「道 -TAO-」の「Walkin」より


僕は僕に、あなたはあなたに従って生きてゆけるなら、それほどいいことはないと思う。もし仮に間違っていたとしても、その時はその間違いにまた自分で意味付けをすればいい。まあ正当化や開き直りと何が違うのかと言われれば答えに窮するのだけれど、責任の所在を自分からずらさなければ、とりあえずはそれでいいと思う。

「まったく。それにあの国に食べ物があるとはかぎらないよ。人間が一人もいなかったら、どうするつもり?」
「そうだな、その時は……」
「その時は?」
「その時さ」

時雨沢恵一. 『キノの旅 - the Beautiful World-』, 電撃文庫, 2000.


今度の公転も共に乗り越えましょう。

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