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震災の日の記憶

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 今日,2021年3月11日は,東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から10年の節目の日でした。まずは震災によって犠牲となられた方々に哀悼の意を表するとともに,ご遺族の方々にお悔やみを申し上げます。

1 東日本大震災の概要

 このブログをご覧の方々にはまだまだ鮮明な記憶かとは思いますが,簡単に災害の全容を振り返っておきます。
 
 震災による死者(震災関連死を含む。)は,令和3年3月1日現在で19,747人行方不明者は今なお2,556人に及びます(東北地方太平洋沖地震とりまとめ報)。

 被災住家は,全壊122,005棟,半壊283,156棟,一部破壊749,732棟に達し,他に14,527棟の公共建物,92,890棟のその他非住家に損害が発生しました。

 地震の規模を示すマグニチュードは9.0(Mw),最大震度は宮城県栗原市で震度7に達し,各地に津波が押し寄せました。検潮所における最大潮位は9.3m以上(福島県相馬市)とされていますが,観測施設が津波により被災しており,これ以上の後続波があった可能性は否定できていません。なお,東北地方太平洋沖地震津波合同調査グループによると,宮城県大船渡市綾里湾で,40.1mの津波の痕跡高が記録されているようです。

 この地震は,日本におけるおそらく有史最大規模の地震であり,津波高においても,おそらく最大級と考えられています。

2 2011年3月11日午後2時46分

 震災発生の日,私は朝から新幹線で東京へ向かい,2時過ぎには東京に到着し,東京メトロに乗り換えて神保町駅を目指していました。

 神保町駅に着いた私は,A6番出口から地上に出て,歩き始めていました。地震発生はこのタイミングでした。
 私は,震災前年の2010年まで東京で生活しており,震度4までの地震には結構慣れっこになっていました。
 しかし,この時の揺れは全く違うものでした。
 電柱や信号機が大きく揺れ,地震を感じにくい自動車運転中のドライバーも異常を感じてか停車していました。古いビルの外壁はボロボロ崩れ,歩行者は歩くことができませんでした。立っていられないというほどではありませんでしたが,しっかり踏ん張っていないといけないくらいではありました。そして何より,揺れの長かったこと。

 大きな地震に遭遇した,そういう思いはありました。しかし,これほどの被害を生じる地震であるとはそのときは思ってはいませんでした。

3 震災当日その後

 時間の経過とともに,徐々に情報が入り始めます。
 東北地方の被害が大きそうなこと,津波警報が発せられていること…。

 とはいえ,エレベーターが止まっている以外は,電気も通じていましたし,東京にいる限り,当初は大災害という意識はありませんでした。「ちょっと大きい地震」という感じだったかもしれません。
 
 しかし,その後ガラケー(フィーチャーフォン)に映るテレビのニュース映像が,津波の映像を受信し始めると,これはただ事ではないという認識に変わり始めます。それでも,東京は,夜には常態に復するのではないか,そんな意識がまだどこかにありました。一方,救世軍がビルの前に置いた即席の街角テレビには人々が群がっていました。

 やがて,コンビニの商品棚から食料品や日用品が払底し始めます。飲食店は,従業員が出勤できずに休業。何とか空いているお店を見つけて夕食をとろうと思いましたが,入ると店主が一人で働いていて,「人手がないので注文してもらっても時間がかかる。それでよければ入ってくれ。とりあえず,簡単なつまみとビールなら出せる。」という感じでした。

 交通機関は完全にマヒしており,どこに行くこともできませんでしたから急ぐ用はなく,ここでなんとか食事にありつきました。

4 震災当日夜

 夜になっても公共交通機関は十分には復旧せず,東京の道路という道路は車であふれていました。わずか5kmの道のりを移動するのに,自動車で何時間もかかったという人もいました。

 近くの小学校が避難所に指定されていましたが,ここもすぐに多くの人で埋まっていきました。

 私は,幸い宿泊予約をして東京入りしており,ホテルも営業していたので泊るところは確保できていました。ホテルのロビーには,宿泊先を求める人が次から次へと来ていましたが,当然満室で受け入れはできない状況でした。

 ホテルには電気も水道も来ていましたがエレベーターが復旧しておらず,10階以上の部屋へ歩いて上がるのはなかなか難儀だったのを覚えています。

 ホテルに入って初めてゆっくりテレビを観ることができ,この日の段階でメディアがつかんでいた災害の全容を理解することができました。そして,報道されるニュースの中には,福島第一原子力発電所に関するものも含まれていました。

5 震災翌日

 翌朝,私は,以後の予定をキャンセルして帰ることにしました。

 東京駅へ向かうと,新幹線は改札を開放しており,任意の列車に乗って降車駅で精算して欲しいとアナウンスしていました。これには助けられました。

 帰宅後はニュースにかじりつきました。繰り返される津波の映像,福島第一原子力発電所の爆発…未曾有の災害がそこには映し出されていました。

6 阪神・淡路大震災の記憶

 ここから遡ることさらに16年前,兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)当時も,私は大学生で東京にいました。

 震災発生の日は,なかなか実家に電話がつながらずやきもきしたことを覚えています。

 時期は折悪しく期末試験直前期で,各授業はテスト範囲等を告知する最終授業のタームに入っていました。このため,大学には行きましたが,災害の状況が気になりまったく授業は身に入りませんでした。

 今と違ってスマホはおろか携帯もなく(すでに携帯電話はありましたが貧乏学生には高嶺の花でした。また,持っていてもインターネット接続機能等はありませんでした。),リアルタイムでニュースを知る手段はありませんでしたが,大学が,関西圏出身の学生に配慮してくれたのか,中央食堂に大きなテレビを設置してくれたので,休み時間のたびに見に行っていました。行くたびにカウントが増えていく死者数が恐ろしかったのを覚えています。

 この阪神・淡路大震災の死者・行方不明者数を3倍以上上回る災害が,生きている間に起ころうとは,当時は思いおよびすらしませんでした。

 阪神間では,その後十年たっても,まだまだ駐車場などの形で空き地が残り続けていたことを覚えています。比較的人口稠密地で,復興が順調に進んだ阪神間ですらこの状況であったことを考えると,東北地方の復興はまだ道半ばというべきでしょう。

7 2つの大震災を超えて

 私たちは,活動期に入った日本列島に暮らしています。
 かねてから指摘される東海,東南海地震をはじめとして,今や列島のどこに暮らしていても,大きな地震への備えは欠かせない状況にあると考えなければなりません。

 もっとも,災害への備え,復興,経済成長,エネルギーの確保と二酸化炭素排出削減,さらには新たな感染症の蔓延と,考慮しなければならない要素は多様化・複雑化しています。その一方で,人口減少・高齢化などを背景に,国力の低下も進んでおり,国としての対応力はおそらく低下しています。

 東日本大震災から10年を一つの機会として,私たちはこの国をどのような国として守り,育てていこうとするのか,今一度考えなければならない時期に来ているのではないでしょうか。

 震災の10年先,復興はまだ完了していないだろうとは思いましたが,まさか感染症に覆われる世界という未来は想像だにしませんでした。その意味で,次の10年も不確実性に満ちていると考えざるを得ません。

 否応なく,私たちは不透明な時代に生きているのだと実感します。


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