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○日本語教育・日本語教育学評論

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日本語教育と日本語教育学などで折々に感じたことを発信しています。
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記事一覧

ぼくが自分なりの教材(NEJとNIJ)を作ったわけ

はじめに  「コーディネータ(主任)の役割と責任、そして立場」(https://note.com/koichinishi/n/n8e73ad9cbf22)という記事で、コーディネータの仕事((1)から(3))の(1)として以下のように書きました。  (1) コースの企画と計画   (a) コースのエンドで達成されるべき目標の設定   (b​) 目標に至る「日本語上達の経路」の構想   (c) コース企画の策定(総括的評価の計画、形成的評価の計画を含む。)   (d) (a)か

コーディネータ(主任)の役割と責任、そして立場

はじめに  昨日、ぼくがコーディネータをしている、1学期/5カ月/16週間にわたる日本語研修コースが終わりました。学生は、15名。コーディネータの仕事の達成度はまあ「A」かな。そして、同じくコーディネータとしての責任を個々の学生に対してどれほど果たせたか、つまりコースの所期の目標をどれほどの学生が達成できたかというと、ざっくり言って、1/3は目標を超えて達成、1/3は目標を達成、1/3は目標まで少し至らなかった、くらいです。目標にまったく「手が届いて」いない学生はいませんでし

ぼくは、日本語教育学のフィールドワーカー!? ─ 現場、フィールドの現実の「たいへんさ」を忘れている日本語教育の専門家

 うまくまとまった話にはならないかもしれませんが、こんなテーマで書いてみたいと思います。 1.フィールドワーク  フィールドワークというのは、皆さんご存知かと思いますが、文化人類学や社会学などで行われる研究方法の一つです。文化人類学に引きつけて言うと、生活や文化が脈々と営まれている場所(site)に行って、そこで暮らしつつ、関心の人々の暮らし、生業(なりわい)、風習、祭事、言語活動などを観察・記録して、かれらの生き様やそのシステム、またそこに通底しているかれらのロジックや目

日本語教育の教育企画とアチーブメントとプロフィシェンシー ─ 一部、Can doに基づく教育企画批判

 基礎日本語の教育企画と、アチーブメント(achievement)とプロフィシェンシー(proficiency)について書きます。 1.アチーブメントとプロフィシェンシー  アチーブメントは、教育企画で設定された目標が達成されたか、あるいはどれほど達成されたか、です。それを測るテストは、アチーブメントテストとなります。プロフィシェンシーは、教育企画との関係で言うと、コース終了時に、一般的な尺度で言って「日本語がどれほどできるようになっているか」です。それを測るテストはプロフ

2023年度日本語教育秋季大会後の徒然

 大会後の徒然を書いてみたいと思います。 1.外国人技能実習制度に求められる日本語教育 ─ 誰のため? 何のため?  栗又由利子さん、藤波大吾さん、助川泰彦さんの報告があった。助川さんのは、少し例外的で、日本への送り出しが多いインドネシア、スラウェシ島のマナドという町と茨城県大洗市の話。  栗又さんと藤波さんの発表の日本語教育的な重要結論。 (1) 仕事の上での日本語は間に合っている。というか、「仕事」上は、挨拶をした後は、もう話すことはなく、黙って作業している。*仕事の指

である-体とですます-体

 ある原稿を書いていました。その原稿が載る本はである-体となっていますので、である-体で書いていました。一方で、まもなく出版される「親しい仲間」といっしょに書いている本はですます-体です。ぼく自身は、過去5年間くらいは、研究書や研究論文はである-体、日本語教育学関係の本や論考はですます-体で書いています。  今日の原稿は、である-体で書いていたわけですが、ぼくとしては日本語教育学の原稿として書いていました。そうすると、ぼくの考える日本語教育学とである-体がどうもうまく「噛み合

Ambitionって、何?

 きょうは、後期に向けたキックオフ・パーティを同僚としました。すごくいい仲間です。そんな中、一人の先輩が一人の若手に「あなたなんかは、ambitionがあるでしょう。ambitionをもたなきゃ!」と言いました。ぼく自身も、若い人にはしばしば「ambitionをもたなきゃ!」と言っています。その先輩のambitionの意味はやファジーでした。それで改めてambitionについて考えました。  ぼくの言うambitionは「野心」ではありません。もっと、下世話に言うと、この「野

人文学では、科学を包摂する学問がぜひとも必要

 2023年8月9日のTwitter​の足し算。  8月7日に担当している集中コースが終わり、成績処理などもして、その他いろいろ対応をし、やってしまわないといけない会議などもようやく今日終わり、やっとお盆休み?に入ることができる。少し「お勉強」に集中したいと思う。このところは、ベルクソン、ドゥルーズという「真打ち」登場です。  おもしろいのは、ベルクソン→ドゥルーズ×ヴィゴツキーという部分を日本の佐藤公治さんが丁寧に論じてくれている。『ヴィゴツキーからドゥルーズを読む』。こ

「多文化共生の理念と複言語主義は並置してよいものか? 並置するのが適当ではないなら、両者の重なりと相違は何か?」へのChatGPTの答え

 昨日、Twitterとfacebookで以下のような発信をしました。   で、今日、「そう言えば、あの質問にChatGPTだったら、どう答えるかなあ」と思って、やってみた。  600字以内でという注文を入れると、以下。  600字以内でという注文を入れたのは、もっと明快な答えを「出題者」(わたし)は要求しているから。  ChatGPTの答えは、よくお勉強をした優等生の答えですね。そして、冒頭の質問に対しては、これで満点をあげなければなりません。  冒頭の質問はちょっ

NEJを採用することは新たな教育実践をスタートさせることである!

 日本語学校の主任や大学の日本語コースのコーディネータの最も重要な仕事は、教育企画をどうするかを検討し決定することです。教育企画はコースの目的や目標や取り扱う内容を「指定」するもので、学生たちが何をし何を達成しなければならないか、授業担当の教師が学生たちを支援して何を達成させなければならないかを要求します。つまり、教育企画は、コースで勉強する学生たち、コースで学生たちの日本語上達を支援する教師を決定的に縛るものです。コース全体としても、各課や各ユニットでも。そんな教育企画の仕

日本語教育の内容と方法の論じ方について③ ─ 「わたしたちの実践」の創造に向けて

 日本語教育のために、なぜ教師向けの企画・計画書が重要なのでしょうか。なぜ習得と習得支援の考え方も加えなければならないのでしょうか。このセクションではそのようなテーマをめぐって論じます。 1.Scarcella and Oxford(1992)の言語促進活動仮説 1-1 第二言語の習得をめぐる3つの仮説  第二言語の習得に関しては、以下の3つの仮説が提出されています。筆者流の言葉遣いでごく大雑把に説明します。  そして、第二言語習得研究では、それぞれの仮説を支持する証拠が

日本語教育の内容と方法の論じ方について② ─ 学習段階の解釈について

 「論じ方について①」で、第二言語の習得と習得支援についての考え方を企画・計画書に含めるべきとの議論をしました。また、さらりと日本語力ということも言いました。  日本語技量(Japanese language capacity)、あるいはシンプルに日本語力というのは、どのような知識や技能などがその基盤にあるにせよ、たどたどしく話す状況や語の形式や文の整序性などに問題がある状況や相手の言うことがわからないで何度も聞き返す状況なども含めて、日本語で言語活動に従事する総体としての能

日本語教育の内容と方法の論じ方について① ─ 誰に向けて発信するのか

 言語教育を企画するにあたって参照される基礎資料として、CEFRや、JFスタンダードや日本語教育の参照枠などがあります。後2者はCEFRの焼き直しなのでCEFRを直截に読める人にはあまり価値はないと思います。また、後2者はCEFRの邦訳に基づいて作成されており、そもそもその邦訳での各レベルの訳が十分に原著の趣旨を汲んだものになっていません。そして、より重要な問題は、後2者を作成した主体がその利用方法についてあまり自覚的でないことです。一連の「議論について」では、その点について

日本語の習得と習得支援について丁寧に議論する② ─ シャドーイングのキモは疑似的な当事者経験

 「丁寧に議論する①」で、「学生たちは言語知識を身につけているが運用能力に結びついていない」ということについて、丁寧に議論しました。そして、最後の部分でシャドーイングの有効性を指摘しました。今回は、シャドーイングの有効性について議論します。   1.演劇的指導となぞり語り  言語教育ではしばしば演劇的手法の有効性がしばしば論じられます。セリフをしっかり「身につけて」実際に演じるという方法は有効でしょうし、実際に体を動かして演じなくても台本のセリフをその人物になりきって「演じ