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複言語発達支援としての言語教育【第1回】 出来事の言葉と思考の言葉 ─ 言語教育の取り扱い対象の検討として

はじめに
 言語教育が取り扱う対象は、構造(=記号)のシステムとしての言語ではないとしばしば言われます。日本語教育学内では、筆者もそのように主張している者の一人です。それならば、言語教育が取り扱う対象は何なのか。「Aではない!」と権威者ぶって主張することは簡単です。しかし、「Aではない!」と言うのなら、速やかに「じゃあ何なんですか?」という質問に応えるのが本来です。言語教育研究者・日本語教育研究者はそのことを怠ってきました。
 わたし自身は、その質問に応えるためにこれまで精力的に研究し考究してきました。このセクションは、上のテーマについてのわたしの考えを凝縮したものです。

1.発話/ディスコースは行為である
─ 言語について考えるときは、構造(記号)のシステムとして考えるのではなく、社会的な主体=当事者による行為というのがあって、言語は行為の一つのタイプとして考えるのが適当である。
─ つまり、言語とは発話/ディスコースの行為である考える。ただし、産出としての発話/ディスコースということではない。

2.身体と心
─ わたしたち一人ひとりの「わたし」は「わたし」の身体である。
─ そして、同時に、「わたし」は「わたし」の心である。
─ 「わたし」の身体は「心を持った物体」(メルロ=ポンティ『目と精神』、1966、p.132)である。
─ 「わたし」の身体は、道具としての身体であり、同時に、表現としての身体である。「わたし」は「わたし」を表現としての身体として示すほかない
─ 言語つまり発話/ディスコースの行為は、(言語の誕生から敷衍すると)表現としての身体の一部だということになる。
─ 教育を受けた現代人を考えると、言語つまり発話/ディスコースの行為は、その当事者の心あるいは人格の表れ/現れの枢要部分となる。「わたし」の発話/ディスコースが、「わたし」の人格の声、意識の声(Holquist, 1981, p.434)である。

3.人間は世界内存在である
人間は世界内存在(ハイデガー)である。人間は、自身で自身の経験を企投し、同時に企投した経験をしている当事者となる。
─ 別の言い方をすると、人間においては作動的志向性(or機能しつつある志向性)が絶えることなく常に働いて、自身の「前に」事態や事柄や物事などを創り出し、その逆方向として、人はまさにそれらを経験している当事者となる。事態や事柄や物事などは意識として経験される。
─ 意識は、志向性を持っている。意識は必ず、何かについての意識である。
─ 意識は、ノエシス-ノエマ相関である。
─ 人においては、音声の姿を有する言葉(内的音声と外的音声)はノエシスのきわめて重要な部分である。
  *言葉を含む表現としての身体全体がノエシスの全体。
─ 言葉は意識の言語的様式である。その意味で、言葉は経験の昇華物である。そして、事態や事柄や物事などがノエマとなる。言葉というノエシスと事態や事柄や物事などというノエマはユニティを形成している。
─ 事態や事柄や物事などはいずれも、自然なものではなく、文化的なものである。
─ 意識は言語的思考として結晶化されて経験される。
  *バフチンの対話原理で言う出来事の結晶(Morson and Emerson 1989, 1990)。
  *言語精神機能(言葉に結晶化させるシンボル化能力、シンボル化能力=丸山)は、作動的志向性の重要部分(枢要部!?)である。

4.言語的思考
─ 事態と事柄と物事を包括して事象と呼ぶ。
  *発話/ディスコースの行為によって示されるもの全体を出来事と呼ぶ。事象は、語られた現実(talked-about reality)あるいはストーリーの世界(story relm)として、語っているという現実(talking reality)に包み込まれる。
─ 言語的思考という意識の志向先には、事態(現下の世界の経験、つまり現下の環界や身心の経験)、事柄(馴染みのある事象の反復)、物事(イデオロジカルな思考の実行)などがある。*その他に、提示態度、受け態度、会話運営があるが当面は議論保留。
─ 言語的思考(発話/ディスコース、内言と外言)は特定の意識=現下の経験の結晶である。
─ そして、それに関わるノエマである事態や事柄や思考などは、唯一的で個別的で拡がりと厚みのある事象である。そして、それは「これ!」と画定することはできない。

5.語ること
─ 事態は表出される。事柄と物事は語られる。
─ 語りの産物がナラティブである。
─ ナラティブは対面的にも行われるし、非対面的にも行われる。非対面的な場合でも、聴き容れてくれるオーディエンスを想定している。←だから、語り続けることができる。
─ ナラティブは、教育を受けた現代人において、「わたし」の存在の根幹に関わる。「わたし」は、わたしによるわたしのためのナラティブの中の存在である。  cf. オートバイオグラフィ

6.語りという対話
─ 現下の「わたし」の言葉は、こうして「あなた」とここまで「わたし」の語りを共有してきた「あなた」に向けての次に続く事柄や物事の「わたし」における言語的思考である。
─ この言語的思考は、「わたし」においてはすでに特定の事柄や物事になっている。
─ それが外言として発せられると、それは音声に姿を変える。
─ しかし、相手はここまで共有してきた語りの延長として位置づけて納得できるようにその音声を対話的に定位する。そして、「なるほど、わかった」というサインを出す。そして、そのサインがもらえると、「わたし」は語りを続けることができる。
─ このように、ナラティブは対話的に進行する。聞き手が目の前にいない場合でも、仮想的に同様である。

7.言語技量
言語精神機能という働きの「産物」は、発話/ディスコースであり、発話/ディスコースの能動的応答的理解と対話的定位である。
─ 熟達した言語ユーザーは、乳児期から現在に至るまで多種多様な言語活動従事の経歴を経て、多種多様な話し方や書き方を蓄積して、現在の言語精神機能を育んでいる。新たな言語を身につけようとする成人は、それを繰り返すことはできないし、繰り返す必要もない。言語教育で取り扱うべき対象は、疑似言語精神機能である言語技量である。
─ 言語精神機能と同じように、言語技量も、言語活動従事の経歴を経て、さまざまな話し方や書き方を蓄積して、育成される。ただし、その際の言語活動従事は、成人が新たな言語を身につけようとする場合ならではの独自の様態となる。

8.言語技量の育成法
─ 言語技量を育成するためには、学習者に言語活動に従事する機会を与え、言語行為=発話/ディスコースの行為の当事者として主体的に言語活動に従事しなければならない。能動的な受容活動であれ、産出的な活動であれ。
  *新たな言語を身につけようとする際の主体性の問題については、第6章で論じる。。
─ そうした言語活動従事には、2種類ある。一つは、他者の語りからの言葉遣いの盗み取り。今一つは、十全な言語活動従事ではなく、いわば近接的な(proximal、ほぼほぼできる)言語活動従事である。

9.語の問題
─ 教育を受けた母語話者など熟達した言語ユーザーにおいては、語は、構造のシステムとして多かれ少なかれ自覚できる対象として成り立っている。
─ 他の言語に熟達している者が新たな言語を身につけようとするときは、新たな言語の語の様式を特定することができる。また、自身の言語のシステムを「パレット」として特定した様式を特定の語として仮に捕捉することができる。
─ 新たな言語を身につけようとする者にとって、語は仮初めの実在として現れ得るし、(仮初めの)実在として捕捉しないではいられない。
─ そして、そのこと自体は問題ではない。問題は、それが仮初めであることを忘れて、画定してしまって、それを確定したものとして記憶することが重要だと考えてそのようにすることである。
─ つまり、新たな言語の語を仮初めの語として知り、仮初めの語として覚えようとすること及び実際に覚えることは問題ではない。問題は、それを一つの語として画定/確定してしまって、言語活動での現れに基づいてその語が意味的に熟成する道を閉ざしてしまうことである。
─ 新たな言語の語を仮初めの語として知り覚えることは、語習得の「橋頭堡」ではあるが、語の十全な習得つまり語の習熟のスタート地点である。




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