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ぼくは、日本語教育学のフィールドワーカー!? ─ 現場、フィールドの現実の「たいへんさ」を忘れている日本語教育の専門家

 うまくまとまった話にはならないかもしれませんが、こんなテーマで書いてみたいと思います。

1.フィールドワーク
 フィールドワークというのは、皆さんご存知かと思いますが、文化人類学や社会学などで行われる研究方法の一つです。文化人類学に引きつけて言うと、生活や文化が脈々と営まれている場所(site)に行って、そこで暮らしつつ、関心の人々の暮らし、生業(なりわい)、風習、祭事、言語活動などを観察・記録して、かれらの生き様やそのシステム、またそこに通底しているかれらのロジックや目線を明らかにして、人の生き方の多様性とともに普遍性を追求するための重要な研究方法です。

2.ぼくはフィールドワーカー!?
 わたしは、40年以上日本語教育と日本語教育学に従事していますが、この間及び現在でも、現場つまり日本語教育が営まれている場所(site)、日本語教育村!?を離れたことがありません。そして、この村で行われているさまざまな営み、その営みのシステム、その営みに従事している人たちのロジックや目線などをしっかりと理解しつつ、ぼく自身、観察者ではなく正統な一当事者・一主体としてこの日本語教育村の営みをより優れたものにしたいと思ってずっと仕事をしてきました。そして、そうして得た理解や、自身の改革的実践のことを一定の報告(documentation)やそれに関わる理論的研究として公表してきました。(「より優れたものに」というのは、そこに一時的に来てくれる「学習者」という人、つまり何らかの内容、何らかの水準まで日本語を身につけたいと思っている人の「期待」に寄り添ってその「期待」の達成に有効に応えるということです。)
 これって、改めて振り返ってみると、ぼくはずっとフィールドワークしてる!?
 
3.現場、フィールドを知らない日本語教育の専門家
 大学のセンセになって日本語教育の専門家と自認し一般からもそのように目されている人と話しているときに、フィールドワーカーであるぼくには、「このセンセは現場、フィールドの現実を知らないなあ」と思うことがしばしばあります。その最たる点は「身につけるべき言葉や表現を増やしても学習者はしっかり努力して身につけてくれる」という楽観論です。
 日本語という学習者たちの言語と何の縁もゆかりもない言語の新たな言葉を一つ覚えるというのはとてもたいへんなことです。そんな新たな言葉が一つの課やユニットで30語であったとして、その30語は6時間や10時間弱の課やユニットの学習でしっかり身につくわけではありません。先生の授業の「関心」が語彙ではなく文型・文法事項のほうに行っている場合は、なおさらです。語や表現の習得、さらには文型・文法事項の習熟というのは一つの課やユニットで完結するものではなく、初出時をスタート地点として何度も再経験の機会がなければ身につくものではありません。もちろん、そうした言語事項の習得を関心の中心として授業実践をしようと提案しているわけではありませんが。

4.日本語教育の実践が優れたものにならない要因
 日本語教育の専門家のセンセが「現場、フィールドの現実を知らないなあ」と思うもっと重要なポイントは、日本語教育の実践が優れたものにならない要因をめぐってです。
 専門家のセンセ方は、個々の日本語の先生たちの授業の方法や実践の方法などを改善すれば日本語教育の実践がもっと優れたものになると考えているようです。しかし、授業や実践の方法などについて新たな方法やアイデアを知り、学んだとしても、実際の現場に帰ると、学校から決められたカリキュラムがあり、指定された教科書があります。なので、個々の先生はそのカリキュラムで「切り取られている」目標や内容、教科書の指定された練習などを取り扱わざるを得ないという状況になっています。つまり、決められたカリキュラムや指定された教科書にガッツリ「拘束」されていて、学習者において日本語の習得や上達が前進すると先生が本当に思う教授実践ができなくなってしまっています。カリキュラムや教科書の「指定」が狭く特定されたものになっていることも大きな問題です。「指定」が緩やかであれば、もう少し先生の主体的な判断による有効な習得支援などができるという意味です。
 速やかに結論的に言うと、日本語教育の実践が優れたものにならない要因は、先生の授業や実践方法の問題ではなく、カリキュラムや教科書(本来は「リソース」であるべき」)などを改革しないと具体の授業実践は日本語の習得や上達を有効に促進するものにはならないだろうということです。

5.現場の現実の「たいへんさ」を忘れないで!
 大学のセンセである日本語教育の専門家の皆さんについて上のようなことを言っているわけではありません。念のため。
 一方で、養成課程を担当していらっしゃる専門家の中からは「innovativeな教授方法や教育方法を教えても、現場に行くと文型・文法事項中心の教育をせざるをえなくなる」という問題意識を開陳する人もいらっしゃいます。そういう問題意識があるなら、自ら、新たな教育企画を開発し、それを支える教材・リソースを制作して公表したらどうでしょう? そんな提案をすると「それはわたしの仕事ではない!」とおっしゃるでしょうね。ならば、それは誰の仕事?
 ご自身が現在、日本語教育の現場、フィールドで、現場の先生方といっしょになって現場の実践に取り組んでいない人は、現場の現実の「たいへんさ」を忘却してしまうのだろうと思います。
 養成課程に携わっている人は、本来現場を持つべきなのでしょう。それも、ただ1つの授業を担当するということではなく、コーディネータや主任として現場の先生方といっしょに仕事をするべきなのでしょう。それをしていれば、現場の現実の「たいへんさ」を忘れることはないでしょう。

 フィールドワーク、してください。


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