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第二言語教育の「常識」 ─ 基礎日本語教育を考える(1)

 前回掲載した目次の連続エッセイの前口上として、「はじめに」として、「なぜ、『日本語教師』は文型・文法事項の指導に固執するのか」というテーマで書きます。まず、固執の背景と思われる事項を箇条書きにします。

1.学習課題を「学」的に捉えている感じ
 教育の企画と実践の構想において、主要な学習課題を捉えることは重要です。「基礎段階の主要な学習課題は文型・文法事項であり、その事項はこのリストで、基本的な学習順序はこのような順である」というふうに捉えて、宣言すると、それは(日本語)学に則った適正で妥当な判断である感じがします。つまり、主要な学習課題を知っているというのは「専門家らしさ」の要素になるわけです。そして、「日本語教師」と称する人たちは皆さんそれを知り共有しており、それを知らない人をそれを知らないというだけで「プロの日本語教師ではない」と排除する傾向があります。つまり、「日本語教師」=文型・文法事項という主要な学習課題を知っている人、となります。

2.文型・文法事項を教授するという「困難な仕事」をやりおおせる
 「日本語教師」を自認する人は、養成課程での学修やその後の自身の創意工夫と経験のおかげで、文型・文法事項を教授するという「困難な仕事」を、巧拙の程度の違いはあれ、やりおおせるようになっています。それは、知識と技術と経験がないとなかなかできないことです。そして、やはり1の場合と同じように、そういうことができる「日本語教師」はそういうことができない人をそれができないという理由で「プロの日本語教師ではない」と排除する傾向があります。つまり、「日本語教師」=文型・文法事項を相応に教授できる人、となります。

3.文型・文法事項の教授を含めたコミュニカティブな授業ができる
 周知のように現在はコミュニカティブな教育を実践することが一般に要請されています。コミュニカティブな教育というのは、わかりやすく言うと、コミュニケーションができるように、コミュニケーションに従事させる活動を伴う教育方法です。そして、今の「日本語教師」を自認する人はほとんど、基礎段階では文型・文法事項を教育の柱としながらも各々の事項をコミュニカティブに教えなければならないことを認識し、おおむねそうしたことができるようになっています。そして、やはり、そうしたことがうまくできない人をそれがうまくできないという理由で「プロの日本語教師ではない」と排除する傾向があります。つまり、「日本語教師」=文型・文法事項を中心にしながらコミュニカティブに教えられる人、となります。

 さて、この1から3の議論、どう思いますか。そして、このような背景で、文型・文法事項に固執することをどう思いますか。
 2と3は、明らかに、文型・文法事項が主要な学習事項との前提で「築き上げられた」ものです。そして、1では、日本語学に基づいて引き出された「物」的な文型・文法事項が主要な学習事項として認定されることが良しとされています。1が肯定されれば、2と3も肯定されるべきでしょう。つまり、2と3で言及されているような教師の技量は肯定され、固執するに価することとなります。
 しかし、そもそもの1はだいじょうぶでしょうか。そもそも日本語学を基礎として基礎日本語教育の企画と実践を構想するのでいいのでしょうか。また、根本の問題として、「物」的な何かを特定し、それを中心として教育の企画と実践を構想するのでいいのでしょうか。日本語教育は、学習者において日本語を上達させることを支援し促進する営みの総体と定義していいでしょう。そして、日本語の上達というのは、口頭言語のみに限っても、多面的で複合的で輻輳的で累進的な行程です。日本語教育者は、日本語の上達の総体をそのように捉えた上で、日本語教育の企画と実践の構想をしなければなりません。日本語学だけに依拠して「物」的な事項を主要な学習事項とするのは、あまりにも拙速です。このように1が必ずしも肯定できないわけですので、2と3への固執も道理のない固執だということになります。
 では、基礎段階の日本語教育で文型・文法事項、あるいは文型・文法事項を習得することは重要ではないのでしょうか。それはそんなことはないと思います。日本語上達の一つの側面あるいは要素として文型・文法事項を習得するという「成果」は必要でしょう。そして、基礎的な語彙の習得ということも「成果」として必要でしょう。問題は、「重要だから、教える!」というロジックでいいのかということです。むしろ、「重要だから結果として習得はさせる。しかし、わざわざ取り立てて教えることはしない!」というアクロバティックな方法がむしろ適当だろうと思います。
 この文型・文法事項(と語彙)をめぐる議論は、これから話すインストラクショナル・デザインと教育実践の創造を論じる上での重要な側面を象徴的に浮き彫りにしています。それは、端的に言うと、インストラクショナル・デザインは教授実践者に、一つのユニットで即物的な言語事項の習得を主要な要請として要求してはいけない、ということです。これは、1980年代からよく言われている「『一つの構造を一つの課で!(One structure at a time!)』はだめで、合理的に考えてあり得ない!」との見解とつながっています。そして、日本語教育では、その「One structure at a time!」が今でも基本的な「常識」として通用してしまっているのです。

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