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夢の渚は満ち足りて 抄

 僕の処女小説、『夢の渚は満ち足りて』の冒頭部分を掲載します。気になったら連絡下さい。通販可能です。

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また見つかった、

――何が、――永遠が、

海と溶け合う太陽が。

アルチュール・ランボー『地獄の季節』

八月三十一日。日曜日。




 午前零時の月が、暗い街の上空に浮かんでいる。
 山に囲まれた、海がない街。僕は生まれてからずっとこの街で暮らしている。海はないけど、海に繋がる大きな河が大地を貫き、青々とした山からまるで血液のように海に水を運んでいる。悠大な美しい河川に見えるけど、ゴミが浮いていて汚い場所もある。土手にはゴミや不法投棄物が沢山捨ててある。ひしゃげた自転車、画面がヒビ割れ永遠に何も映ることのないテレビ、何に使うのかも分からない、赤茶色に錆びた鉄クズ。
 そんな河を流れる水は、淀み、濁り、何かの間違いで飲んでしまったら病気になって死んでしまいそうな感じだ。僕は死にたくなったらこの汚れた水を飲むだろう。そうやって死ねば、僕の肉体は腐り、溶けた肉が河の水となり、僕は海まで行くことができる。

 僕は生まれてから一度も海を見たことがない。夜、街が静かな眠りにつく頃、僕は河川敷に座る。そして、やがて海に辿り着く流れを見ているのが好きだ。夜の深い闇は澱んだ流れを覆い隠してくれる。そして月の光に照らされる水面が美しくも見える。昼の河は汚いけど、夜の河は美しい。僕は夜が好きだ。この河が行き着く先の、母なる海に思いを馳せる。僕は海が見たい。柔らかな砂浜を足の裏で感じてみたい。海と溶け合う夕陽を観てみたい……。きっとそれは永遠なんだ。

 この街は、まるでプラスティックだ。立ち並ぶショッピングモールや、シャッターで閉ざされた商店街。暗くなると不気味な光で道を照らす街灯。闇夜に浮かび上がる歓楽街のネオン。やたらと駐車場の広い空虚なコンビニエンスストア。週末になると人間がごった返す飲み屋。善良な人。愚かな人。美しい人。醜い人。皆等しく笑い合い、傷付け合ってる。僕はこの街が嫌いだ。ここに暮らすやつらも嫌いだ。誰も彼もが消えてなくなればいい。そんな事を考えながら眠ると、よく同じ夢を見る。人が誰も居なくなった街。灰色の廃墟となった建物。乗り捨てられた、真っ赤な車。時間とともに積み重ねられた埃が風に舞い、まるで深い霧のごとく視界を歪める。目をこすり再び開いたときには、長い長い時間が流れていて、ゴミ屑だらけの汚れた街は、青々とした木々に浄化され豊かな緑にあふれている.ビルは大きな木の幹に貫かれ、大木が灰色の衣を着ているように見える。真っ赤な車は狼の寝床になり、餌を食べ満たされた狼が、午後の光の中で気持ち良さそうに眠っている。醜さと美しさが調和した世界で僕は、無限に続くような果てしない孤独感を感じ、息ができないほど胸が締め付けられ苦しくなる、という夢。

 僕は一人で暮らしている。ついこないだまでは兄貴と二人で暮らしていたのだけど、兄貴が転勤で東京に行ってしまった。父親と母親は僕が小さい頃に別れたらしい。なんでも母親の方がとんでもない呑んだくれで、それに親父が愛想をつかせたんだって。兄貴と親父と三人で仲睦まじく暮らしていたのだけど、親父が病気で死んでしまった。母親の方は、まだどこかで生きているらしい。葬式にも、母親は現れなかった。因果応報、罪と罰。そんなのは嘘だ。それとも親父には僕の知らない罪があったのだろうか。今となっては知るよしもない。

 家には死んだ親父が遺した映画のビデオテープや本が沢山ある。音楽好きの兄貴は沢山CDやレコードを置いていった。ぎゃあぎゃあ騒ぐ白痴ばかりの下らないテレビ番組を観ても虚しく寂しい気持ちになるだけ。僕には音楽や物語の中の世界がある。そこはとても居心地が良い。空想の中で、虚構の中で、ずっと生きていけたら。でも、夏は終わってしまう。また明日から学校だ。窓を開けるとカーテンが物憂げに揺れた。ため息ひとつ。終わりとはじまりの隙間の夜にて。最初の日記。

九月一日。月曜日。晴れのち曇り。

 夏が終わった。刺すような朝日が、いやみったらしくカーテンの隙間からベッドに注がれている。今日も暑くなりそうだ。無理やりにベッドから身体を引き剥がす。ああ、また毎日電車に乗って学校に行かなければいけないのか。学校自体は嫌いじゃない。嫌いなやつは沢山いるし、友達はほとんどいないけど、静かな図書館で本を読む時間は好きだし、女の子たちの輝きを見るのも好きだ。そう遠くない未来に確実に失われてしまう特別な光。どんなに美しい花も、いつかは枯れてしまう。彼女らも、一人また一人と汚れていき、いつかは歳をとり死ぬ。僕だって、きっと何十年かあとに死ぬ。死を通して物事を見ると、今の見え方が変わってくる。僕は電車の中で楽しそうにしている女の子たちに、「君たちは汚れていき、いずれ死ぬんだよ」と心の中で囁きかける。

 僕の通う学校は、広々とした田園の中にぽつんと建っている。教室の窓からは、もうじき刈られる稲たちが、気持ちよく風に揺れているのが見える。まだ夏の香りを残した生ぬるい風は、稲穂を揺らし窓から教室に入ってきて、黄金の風となって女子達の髪をふわりと揺らす。煌めきながら揺れる黒い髪は、まるで月光に照らされた夜の河のよう。美しい光景だ。

 今日は山田君の事を書こう。山田君とはあまり話した事はないけど、彼はいつも朝のホームルームが始まるまでヘッドフォンをして虚空を見つめている。何を聞いているのか、僕はずっと気になっていた。今日は、ある事件が起こってそれが分かったんだ。

 山田君は吹奏楽部に入っている。そして不良どもから馬鹿にされ、からかわれているグループに属している。今日も山田君がヘッドフォンをつけながら外の風景を見つめていると、後ろから不良グループの一人、浅井にヘッドフォンを取られてしまった。
「山田、お前何聞いてるんだよ」と、胸糞悪いにやけ顏で言う浅井に対して山田君は、
「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」と答え、明らかに敵意を宿らせた目で浅井を睨んだ。そして、
「返せよ」と浅井に掴みかかっていった。取っ組み合いが始まり騒然となる教室。担任が教室の扉を開けて入ってきて、その場は収まったけど、普段は物静かな山田君が感情的になるのと、僕も大好きなヴェルヴェット・アンダーグラウンドを聞いている、という事で僕は驚いた。山田君と音楽の話をしてみたい。でも、彼と話すと、彼が属する冴えない集団の一味とみなされ、不遇の学校生活を送る事になるだろう。自分が属する派閥というものは大事なのだ。ああ、僕は何てずるい人間だろう。救い難いクソ野郎だ。自分がとことん嫌だ。そんな自己嫌悪に苛まれながら、新学期の初日は終わった。朝はあんなに美しく見えた世界。くそ、何もかも終わっちまえ。もう何も書く気分になれない。今日はここまで。

九月二日。火曜日。曇りのち晴れ。美しい夕焼け。

 鼠色の雲が浮かぶ、重苦しい朝。今日は夏休みの宿題を提出する日だ。僕が頭を悩ませたのは読書感想文だった。候補が下らない低俗な本ばかり。僕は迷った挙句、候補に無い本を読んで感想文を書く事にした。大学に行く気も無いし、卒業さえ出来れば成績なんてどうでもいい。夏休みの長い時間を使って読める長編が良かった。僕は近所の本屋でドストエフスキーの『罪と罰』を買った。初めて読むドストエフスキー。素知らぬふりをして現代文の岡田に提出した。普段は波風を立てない僕の、小さな反抗だ。
 その日の放課後、岡田に呼ばれた。職員室に行くと案の定読書感想文の事だった。岡田はもじゃもじゃに生えたあごひげを指先でもてあそびながら、僕に言った。
「何で呼ばれたか分かるか?」
 僕は分かっていたけど知らないフリをした。岡田は少し戸惑いながら、僕に言った。
「お前が書いた読書感想文の本は、課題図書の候補に無いものだ」
「そうなんですか? 近所の本屋の読書感想文コーナーに置かれていたから……」
 僕は戸惑った演技をして白々しく答えた。我ながら、見上げた道化っぷりだ。
「それは別にいい。いや、良くは無いが、高校生には難しいこの長編を読んでしっかり感想文を書いたのを褒めたいくらいだ。ただ、まだ通して読んではいないが、一つ気になる事があってな」
「なんですか?」
「石原、お前はラスコーリニコフに同調し肯定している。これはちょっと危険な思想に思える。どうなんだ?本当にラスコーリニコフは正しいと思っているのか?」
「先生、僕は全面的に肯定している訳じゃありません。羨ましいと思ったんです」
「何で羨ましいなんて思うんだ?」
「うまく言えませんが、こんな田舎に住む凡人の僕は、それこそナポレオンみたいな選ばれし人間ではありません。例え間違った行為をしたとしても、ラスコーリニコフが自身の凡庸さのために苦悩する姿が、他人事じゃない気がしたんです」
 岡田はじっと僕の目を覗きこみ、ため息をついた。
「まぁいい。ドストエフスキーを読むのは初めてと言ったな。私は大学の卒業論文でドストエフスキーについて書いた。多感な時期にこういう本を読むのはいい事だよ。他のも読んでみてくれ。図書室にあるだろう。読書感想文としては問題無い。良く書けてる」
「はい、ありがとうございます。さようなら」
 これまであまり岡田と話すことはなかったけど、何だか親近感が湧いたやり取りだったな。皆に嫌われてるけど、僕はこの人のことが好きかもしれない。

 早速ドストエフスキーを借りるために図書室に行った。図書室の空気はひんやりしていて、静寂に満たされてた。風が音もなくカーテンをふわりと揺らす。野球部の練習の声が邪魔にならない程度にうっすらと聞こえてくる。僕はドストエフスキーの全集を見つけてページを開いてみる。古い本のちょっとカビ臭い匂いがする。僕はこの匂いが好きだ。他にも借りようと図書室の中を歩くと、山田君を見つけた。山田君はCDが置いてあるところにいた。彼と、話したい。僕は先に本を借りて外で待ってることにした。

 ひんやりとした校門に寄りかかり、山田君が出てくるのを待つ。近くの教室からピアノの音が聞こえてくる。どこかで聞いた事のある、郷愁を思わせる美しいメロディだ。何ていう曲だろう。誰が練習しているのだろう。風のざわめきとピアノの音が溶け合って、僕の耳に運ばれてくる。この美しいメロディは、遠い昔に海の向こうの国で生まれ、時を越えて海を越えて、この極東の島国の、クソみたいな街のチンケな生徒が奏でているんだな。昔の人はこのメロディを聞いてどんな事を思ったのだろう。僕と同じように、寂しさと懐かしさで心が揺さぶられていたのだろうか。暫く聞き惚れていると山田君が出てきた。意を決して話しかける。
「山田君」
「ああ、石原君」
「おれも図書室にいたんだ。一緒に帰ろうよ」
 陽が落ちかけて、空が燃えるようなオレンジ色に染まっている。朝の重苦しい雲は、空の彼方に流れていったらしい。さっき聞いたピアノのメロディが頭から離れない。強い風が吹く中、僕らは並んで言葉少なに歩いた。無意識のうちに僕は頭に優しく響いているメロディを口笛で吹いていた。
「ショパンの別れの曲、だね。そういえばさっき誰か練習してたなぁ。誰だろう」
 そうか、山田君は吹奏楽部だった。兄貴が吹奏楽部だったっていうこともあって、実は僕も入部したかった。でも、バイトしなくちゃいけないし、何より文化部のグループの中で学校生活を送るのが嫌だったんだ。くそ、そんな何の役にも立たないプライドなんていらないのに。自己嫌悪が僕を侵食してきた。話題を変えなくちゃ。
「山田君、CD何借りたの?」
「RCサクセションだよ」
「へぇ、RCサクセションあるんだ。すごいね」
「この学校の図書室にある本とかCDは、市の図書館にあるものをそのまま譲り受けたんだってさ。だから学校にしては珍しいのがあるんだって。石原君は?」
「ドストエフスキーだよ。最近初めて読んで興味が出たんだ」
 山田君は、まんまるい目を見開いて、まっすぐ僕を見つめた。
「すごいね、ドストエフスキーなんて。石原君、本好きだもんね。時々図書室にいるよね」
「うん」
 暫く無言になり、僕たちは歩いた。その無言の空気が、とても心地よく感じられた。まともに話したのは初めてなのに、昔からの友達のような気になった。遠くで線路の遮断機が降りる音がうっすらと聞こえてくる。カン、カン、カン、と乾いた響きでその音は、どことなく憂いを含み、心に訪れるのは、淡い郷愁。僕たちは田んぼの中の道を通り抜け、賑わっている商店街に入った。皆がそれぞれの帰り道を歩いている。風に乗って、肉屋の店先で売ってるコロッケの美味しそうな匂いが漂ってきた。
「山田君、ヴェルヴェッツ聞くんだね。昨日のこと……」
「おれは、浅井が嫌いだ。ああやって、人をおちょくって面白がるやつ、殺したいよ」
 僕は「殺す」という言葉に驚いた。温厚な山田君からそんな言葉が出るなんて。
「……ヴェルヴェッツの何を聞いてたの?」
「セカンドだよ。あの歪んだ、でも美しいギターを聞くと、心が洗われる気がするんだよね。学校が始まって憂鬱だったから、あのアルバムを聞いて心を落ち着けてたんだ。それなのに浅井のやつ……」
 彼の目に怒りが宿る。さっき僕を見た眼差しは消え去っていた。くるくると色が変わる瞳。こんなにも自分の感情を表現する人だったんだな。僕はふと空を見上げた。オレンジ色に燃えている空に、暗い夜の色が少しだけ差し込んで来ている。まるで山田君の感情のように、空は色を変化させていた。
「石原君、今年の学園祭、何かやったりするの?」
「いや、おれは楽器出来ないし、バイトもあるし何もしないかな。山田君は?」
「僕は弾き語りでライブしようと思うんだ。良かったら見て欲しいな」
「うん、見たい。絶対見に行くよ」
 僕らは駅に着き、山田君は逆方向の電車に乗って帰って行った。学園祭。退屈な行事だけど楽しみが一つ出来た。山田君はどんな歌を歌うのだろう。座席に座り、図書室で借りたドストエフスキーを読もうとしたけど集中出来ない。僕は車窓から見える田園風景をぼんやりと眺めていた。夕暮れが終わり、空は美しい薄明時にさしかかっている。街灯が照らす暗い道には、それぞれの家路につく人々。皆、喜びや悲しみを抱きながら歩いてるのだろうな。暖かい晩ご飯が待っている家に帰る人。恋人と別れたばかりで、深い孤独を噛み締めながら、暗い部屋に帰る人。淡いオレンジと、限りなく黒に近い青の混じり合った奇妙な空の色は、この街に住む人々の感情を一つのパレットにぶちまけて、混じり合わせた色。今日はいい日だったな。でも、明日から僕は学校で山田君と普通に話せるのだろうか。山田君が話しかけてきたら、どう接すればいいのだろう。 

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