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さよなら、大林宣彦監督

 先日、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』で放送された、「さよなら大林監督。追悼特別企画<第1回 大林宣彦映画 総選挙>」にて、ありがたいことに僕の『転校生』への1票を読んで頂きました。なんか知らないけどめちゃくちゃ緊張して、手汗が滴るほど出てました。妻とのクリスマス花筐事件も宇多丸さんに笑って頂いて嬉しかったです。

 ただ、僕なりの『転校生』論をメールに書いたのですが、大幅に端折られてしまったので(当たり前)、ここに書き残して置こうと思います。あと、デビュー作『HOUSE』を再見して発見した驚くべきことも書いておきます。大林監督関連の本などいろいろ読んでるけど、あまり言及されてないんじゃないかな。

 僕の大林監督への愛情は去年こちらの記事で書いたので、良かったらこちらも読んでみてください。

  大林監督の映画では、度々幽霊とも言える存在が登場します。では、幽霊とはなんぞやと考えてみると、それは過去に存在した人の想いが具現化した存在、だと思うです。大林監督の殆どの映画にそんな存在が登場します。

 しかし、代表作たる『転校生』に関しては幽霊たる存在は出てきません。あれ? 実は異色の作品? かと思いきや、そんなことはないのです。「さよなら、おれ! さよなら、わたし!」と決別した過去の自分こそが、幽霊たる存在であると僕は思うのです。

 成長し、大人になると言うことは、他者を受け入れ、これまでの自分に別れを告げること。過去の自分は、もういない。失われた存在なのです。決別した自分自身の想いを具現化したこの映画自体が、もはや幽霊たる存在なのではないでしょうか。この作品だけは、監督自分自身の幽霊を、映画として具現化しているのです。だから、この映画だけは監督のフィルモグラフィーの中でも特別な存在だと僕は思います。

 ラストカット、かつての自分に別れを告げ、離れていく過去の自分自身(小林聡美)を8mmで撮影するシーンは、まさに大林監督の創作そのものを表現しているのではないでしょうか。僕はなんとなく、フランスの幻想作家、ジェラール・ド・ネルヴァルの「創り出すということは、結局のところ思い出すことだ」という言葉を想起してしまいます。僕にとっても創作とはそういうものなのかも知れません。おこがましいですが。だからこそ、僕にとって『転校生』は特別な映画なのです。(『さびしんぼう』も双璧をなす特別な映画ですが)

 ちなみに、ここからはアフター6ジャンクション関係ありませんが、大林監督の映画を見直していくなかで、気づいたことがあります。デビュー作『HOUSE』で、主人公の部屋の中に、アンドリュー・ワイエスの絵画、『クリスティーナの世界』が飾ってあったのです。

 この絵画は、下半身が麻痺したクリスティーナ・オルソンが這って家に帰る姿を描いた作品です。クリスティーナや彼女が住むオルソンハウスは、ワイエスの創作において重要な要素のひとつです。ワイエスは、クリスティーナの姿を見て、「大部分の人が絶望に陥るような境遇にあって、驚異的な克服を見せる彼女の姿を正しく伝えることが私の挑戦だった」と言っています。

 映画『HOUSE』で登場する、おばちゃま(南田洋子)は、足腰が弱って車椅子に乗っています。まさにクリスティーナの姿と呼応します。そして、ワイエスの言葉は、まさに近年の大林監督の映画製作の重要な哲学と重なるのではないでしょうか。絶望に陥るような境遇にあって、それを克服する姿を正しく伝えること。まさに東日本大震災後に創られた、『この空の花 −長岡花火物語−』は、そんな要素が色濃く現れています。本当に一貫してます。凄い。

 余談ですが、純粋な大林監督作品ではないですが、他のどの映画よりも自伝的な要素が濃い『マヌケ先生』も、僕は大好きです。この劇中で、大林監督は謎のアメリカ人映画監督、ジョンとして登場します。(変な英語をカメラマン役のハリーこと小林稔侍と話すのですが、最高に面白いです。笑)
 ジョンこと大林監督は、主人公の少年と接して、こう言います。

 「ハリー、君が言っていたように日本はきっと素晴らしい国になるよ。なぜなら、あの少年の心には映画の心が生きている」

 この監督の願いとも言える想いが、次なる世代に受け継がれていると信じ、たとえ大部分の人が絶望に陥る状況であったとしても、それを克服していく努力をしなくてはいけないな、と思いました。

 同じ時代に生きられて、本当によかった。変な映画ばっかり作る大林宣彦監督が、僕は大好きです。僕の人生を変えてくれたと言っても過言ではないと思います。


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