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3月19日 逆流の思い出

 朝、いつもの川沿いを散歩せずに、駅前のスーパーで買い物をした。ヨーグルトと昼食用のパン、豆菓子を二袋、それとシャンプーとコンディショナーの詰替え用を買った。それらを薄い布のトートバッグに詰め込み、自宅へと帰っている道すがら、ふと気づいた。やけにすれ違う人が多い。僕は人の流れを逆流しているのだ。皆、駅に向かって歩いている。グレーのスーツを着た壮年の男性、鮮やかなグリーンのセーターを着た若い女性、ベージュのスプリングコートを羽織った、足の細い青年。オーバーサイズの黒いパーカーを着て、ヘッドフォンで音楽を聞きながら歩く少々ガラの悪い少年。すれ違うそんな人達の姿を見ていて、僕はかなり昔のことを思い出した。

 15年ほど前。僕は西新宿のビルの中の一つでアルバイトをしていた。仲のいい友達も、職場は違うが近いビルでアルバイトをしていた。僕たちは朝、甲州街道沿いにある喫煙所で落ち合い、缶コーヒーを飲みながら一服し、それぞれの職場に向かっていた。
 ある寒い冬の日、友達が僕に言った。
「バイト、サボらないか?」
 僕は「いいね」と言って携帯電話を取り出し、職場に電話をかけた。そして「風邪をひいてしまったので休みます」を嘘をついた。友達も同様に仮病をつかい、アルバイトを休んだ。
 さて、どうするか。僕たちは凄まじい人混みの流れを逆流して歩いた。皆これから、墓標のようなビルの中で夜になるまで拘束される。しかし、僕たちはどうだ。何の予定もない。自由だ。甲州街道を歩く人の群れから逃れ、僕らは古びた喫茶店に入り、モーニングを頼んだ。熱いブラックコーヒーを飲み、カリカリに焼けた食パンを食べ、天使がラッパを吹いていてもおかしくないほどの眩しい光の中、煙草に火をつけて、歓喜に満ちた一服をした。僕たちは満面の笑顔で、「最高だな」と笑いあった。

 そんな遠い記憶を思い出して、ちょっとだけセンチメンタルな気持ちになった、春の朝。あいつ、元気かな。
 

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