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意識と進化のシーソーゲーム

「意識」についてとても面白いコラムを見つけました。

ようは、
人間の「意識」は種全体にとってメリット・デメリットそれぞれある、
という話です。

「意識」は人類特有の高度な生存能力、という意味でメリットだけだと思い込んでいました。

未だに「意識」がどう生じるのかは解明されてませんが、少なからず人類の精神活動を主に担う大脳新皮質あたりが関係しそうです。

前述のコラム趣旨とはずれますが、意識の研究者のなかでは大家ともいえるダマシオ氏が一般向けに書いた本が和訳されています。

そこでは意識を、身体(&非身体)で感知して脳にマッピングされた二次元以上の情報を、感情(これも知覚との対話から生じる結果)をスパイスにして心的イメージに変換されたものとして考えています。

それは一か所で集中的に行われるのでなく、局所的なマップ情報を統合するプロセスとしてみなしています。(細かいですが、知覚種類によっても成熟度があるようです)
この統合的な処理が人間特有なのかもしれません。言い方を変えると、それ以外は神経密度の度合いはあれ身体的には動物に近いのかもしれません。

余談ですが、ダマシオ説と別に、近年この意識を構築するプロセスに、量子論が関係しているかもしれない、という説が再浮上しています。

「再」浮上と書いたのは、何十年も前にロジャー・ペンローズが量子脳理論と名付けた野心的な仮説がありました。
微小器官が量子現象を行うことで意識を発現している、というものです。こちらも過去に触れたので引用にとどめておきます。

話を本題に戻すと、この人間たらしめる「意識」というギフトが、必ずしも進化に貢献しない、というのが冒頭コラムでふれられています。

自分なりに解釈すると、種の保存という観点では、場合によっては個の過渡な生存欲求(をもたらす意識)が邪魔になるかも、ということです。

もう少し濾過すると、「個の最適が全体最適を阻害するリスクがある」、というところでしょうか。

ある生物のメスがオスを食べて子の栄養分にする、というやや過激な例があげられていましたが、それがなくとも「個の生存欲求肥大」は共感します。
自分の生存を犠牲にしてまで種の保存を優先する、というのは極めて非日常的なシーン(例:臓器移植しないと子供が死ぬなど)を除けば一般的に認めにくいです。

そして著者が指摘しているように、副産物だったはずの意識が目的にシフトして、種の保存からみて対抗する可能性もあるのはリアリティを感じます。

さらに今は、「テクノロジー」がその自己生存欲求を助長していく可能性もあると感じました。

結果として、一人の生存欲求へのエゴが人類全体にとって悪い影響を及ぼすということで、現代史を見ると全否定できません。

自己犠牲まではいかないまでも、個と全体のバランスを保った健康な意識を保ちたいと思います。

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