見出し画像

[ その②]「ぼくが出せなかった7通の手紙」~胃がんに罹ったペシェへの手紙~ 1.はじめて胃がんと知らされたあなたへ

この作品の、Amazonリンク: 
 ぼくが出せなかった7通の手紙 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon


 その他の、こじこうじの作品へのリンクは
    太陽の秘密 | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon
    アベマリア | こじ こうじ |本 | 通販 | Amazon

   Youtubeに紙芝居絵本「ものほしざお」があります
    https://youtu.be/iGRwUov3O74?si=bH2ZszSCB6b6fquq 

             *

1 はじめて胃がんと知らされたあなたへ

    家に向かいながら、ペシェのいらいらは少しおさまってきたようだった。
 ぼくは、ペシェのアパートまでついていくことにした。
「先生、あんな汚いところに行きたいなんて、変わった趣味だね。でも、申し訳ないけど、普段どおりやらせてもらうよ」
 1DKの小さな間取りだが、清潔なアパートだった。
 部屋の机の上には最新のパソコンが1台。
 その横には、画面のふたが閉じられたノートパソコンが1台あって、その上には、きれいな白い花をつけ、独特の香りをはなつ、胡蝶蘭の鉢がおかれていた。
 このノートパソコンは、まだ、ペシェがホームレスのある老人とともに「デイトレード」から得た収入で暮らしていたころ使っていたものだったという。
 年とともに、パソコンはメモリー容量もスピードもあがってきて、まだ使えるがそのノートパソコンはいわばペシェのその当時の日記かアルバムのようなものになっていた。
「その蘭は、今は死んでしまったその老人が公園のテントの脇で育てていたもので、いわば、彼の形見のようなものなんだ」
とペシェは少し恥ずかしそうに言った。
 彼によれば、蘭の栽培は、その老人が死んでから独学ではじめたという。
まだ3年くらいだが、その魅力にペシェはとりつかれつつあった。
 蘭の花は長く咲き続ける。
 2週間、ときには4週間。
「入院して手術をうけてまたこの部屋にもどってきたとき、まだこの花は咲き続けていてくれるかな?」

ペシェは、小腹がすかないか?といって、慣れた手つきでインスタントラーメンを手早くつくった。
「一人暮らしだけど、栄養には少しは気をつかっているつもりなんだよ」
小さななべにキャベツやねぎなどの野菜と豚肉をいれて炒めた後、そこに水とダシを直接いれて煮る。
具には、かまぼこをいれたりナルトをいれたり、チャーシューや玉子をいれたり(これも醤油と砂糖とみりんを入れて自分で煮たものだ!)毎回工夫をする。
ダシは、ラーメンについている粉末ダシだ。
麺は、別のなべでゆでる。
軽くゆでた麺を屋台のラーメン屋でしているように水をきって、野菜と肉をいれた小さななべに移し、少し煮込んだら完成だ。
ペシェがコンロからおろした鍋から、ぼくらは、直接はしでラーメンを食べた。
「すべての基本は、これですよ。あとは、ダシ醤油とうどんの組み合わせにしたり、ごはんをたいたときは麺をいれずに味噌仕立てで味噌汁にしたり。バリエーションは無限といっていい」
食事がすむと、ペシェはコーヒーをいれ、ぼくにすすめながら、自分はタバコを吸いはじめた。
やはり、タバコの銘柄は「ペシェ」だった。
「先生。ぼく、胃がんと診断されたんだけど、胃が痛いとか、食事がとれないとかの症状はまったくないんだけど。思いつきで、先生に、健康診断で胃の経鼻内視鏡検査をやってもらったら、まわりまわって、結局、胃がんだから治療のために今度手術が必要ということになって。検査をすすめた小松先生を少し恨んでるよ」
 冗談で言っているに違いないこのペシェの言葉を、ぼくはこうたしなめるしかなかった。
「とんでもない。検査をしなかったら、もっとひどいことになっていたよ」

    ペシェはぼくに、決まった手術の予定日や手術方法について話した。
 病院での主治医からの手術の説明は適切だった。
ぼくは、よけいなことをいって、ペシェが迷わないように気をつけた。
話しを聞くことを中心にして、彼からでた質問についてのみ答えるようにした。
「なにか質問は?って先生に聞かれるんだけど、そんなにいろいろ聞きたいことはなかったよ。むずかしい専門の話だもの。結局まかせるしかないだろう?」
「ただ、手術とは関係ないけど・・・」
ペシェはひとつ質問をした。
「いったい、ぼくの胃がんはなぜできたんですか?いつごろできたんですか?主治医の先生は数年前から、って言ってましたけど」
「なぜできたか、については、今のところ人類はそれについての明確な答えをもっていないとしかいえないな。
いつからか、っていうことについては、こういう説がある。
1個のがん細胞が、検査によって検出可能な1cm程度のがんになるためには、30世代の分裂(2の30乗個のがん細胞があつまって、ようやく目に見えて人間が検出可能な大きさになる)を続けることが必要だ。
がん細胞がシャーレの中で1回分裂するのに要する時間は通常2、3日。
それからすると、1個のがん細胞が1cmの大きさになるには、数ヶ月という計算がなりたつ。
でも、実際の人間の体の中では、この過程には数ヶ月でなく10年以上かかると推定されている。
でも、小さい細胞のときはゆっくり増殖しているが、がんが大きくなればなるほどその増殖のスピードが指数関数的にましていくということは一般にいえると思うよ」
 ペシェは納得したようなしないような表情だった。
 黙っているペシェに、今度はぼくの方から質問をした。
「主治医の先生に、手術前にはタバコをやめるようにと、いわれなかったかい?」
「そうか。小松先生も医者だったよね。でも、今まで、ぼくがタバコを吸っていても何もいわないから、先生は喫煙についてはそううるさくないのかと思っていた」
そういって、ペシェは喫煙習慣についてのいろいろないいわけをはじめた。
手術について考えるときとは打って変わって、彼は饒舌になった。

「ニコチン依存症」というのはそのとおりだ。
でも、ぼくにはぼくなりのタバコをやめない理由がある。
第一に、たとえタバコががんになる危険を本当に高めるとしても(これは実はあやしい)、もうがんになってしまった自分には関係ない。
何よりも、いままで、数々の困難と孤独を乗り切ってきた「相棒」であり「同志」であるタバコを、あまり信用でるとは思えない健康被害の情報だけを根拠に捨てることなど自分にはできない。

しかし、ぼくはペシェに釘をさした。
「ペシェ。ぼくが医者なのに厳しく禁煙をいわないのにも、それなりの理由がある。
でも手術前となると話は別だ。
手術前は、絶対禁煙だよ。タバコは手術後の肺炎をふやし、傷の感染率を高めるんだ。
手術前、そして入院中は禁煙だ。どうしてもというなら、吸うのは退院してからだ。でも、吸ったから、胃がんが再発しやすいなんていうもっともらしいウソはいわない。
もちろんこの入院を契機に禁煙できれば一番いいとは思っているがね。
でも手術前の禁煙は、絶対だ」
ペシェは、いわれたとおり禁煙することを約束した。
普段、禁煙ばかり言っている嫌煙家にいわれるより、普段何もいわないぼくに言われるほうが、よっぽど効果的のようだ。

 ぼくは、ペシェのアパートを出て歩きながら、ひさしぶりに、昔の外科医をしていた頃の自分を思い出していた。
おそらく、地方には、学会やマスコミでとりあげられることはないが、地方で日本の医療を支えているんだ、という自負をもって働いている外科医たちが何人もいる。
 そして様々な推論からもたらされる医療不信の波をまともにかぶっているのもまた、これらの地方の外科医たちだった。
 彼らは、社会と多少距離をおいて、自尊心と良心をたもちつつ仕事をすることを望む。
医療にささやかな誇りと生きがいを感じていて、医師の仕事を、金を得るための労働とは考えてはいない。ただし、先頭に立って社会をひっぱるような迫力や強い使命感のようなものはない。
他からの賞賛より、自らが価値があると思うことが重要だと考えている。
自らの待遇や職場を改善するために彼等はたちあがらないし徒党をくまない。
扱いが悪くなると病院から立ち去って小規模の病院にいくか開業する。
その行動はむしろ隠遁に近いのかもしれない。
しかし世間は、勤務医より開業医のほうが社会的に上とみる傾向がある。
実は、開業医は、研修医レベルの知識で医療をおこなっているだけだといていっても、なかなか意味が通じない。
勤務医の地位が低いところにも今の医療の問題がある。
彼らは世間からも、組織内部からも、その貢献をみとめられないのだ。
そして、まさしくこれこそが、ぼくが地方の外科医をやめて、東京の検診センターに移った、一言ではいい現せない動機のひとつだった。

外科医をやめて今の検診業務にかわったことについて、ぼくの後悔の念はなかった。
ただ、勤務医のころは主治医という立場にいたのが、今のように病になった知人に対するアドバイザーという責任の軽い立場になったとき、勤務医のころ患者に対して言いたくても言わなかったことについて、もう少しゆっくりペシェに話してもいいかもしれない、という気持ちがぼくに沸き起こってきた。
言いたくても言わなかった理由には、まずは、時間的な制約の問題がある。
聞かれもしないことをこちらからいろいろ話して、ますます相手からの質問をうけて時間がとられるようになるのは困る。
(困るのは仕事がまわらないからであって、めんどうくさいからではない)
黙っていれば、みな、ペシェのようにたくさんの質問はしてこないものだ。
別の理由としては、「言わないほうが良いかもしれない」という判断から、というものだ。
でも、もう主治医として患者の治療にあたることはないだろう今、言いたくても言わなかったことを、このまま永久に言わないままでいることが、もったいないような気がしてきていた。
患者に今までいえなかったことを、一度書いてみたいという気持ちがわいてきたのだった。

そして、ぼくは、一通の手紙をペシェにあてて書きはじめた。

      *

この手紙は、あなたが、小説やパズルやマンガのかわりに楽しんで読んでくれて、おまけに病気についての教養もつけてくれて、さらにちょっぴり人生についても考えさせてくれるものにならないかと書きはじめたものです。
 これはちょっと欲張りすぎかもしれない。
 でも、最低限、この本を読んだ時間が無駄でなかったと思ってもらえればそれでいい。
 本の悪影響で、さらに、無駄な時間を費やすことのないように、と願う。
 本を読むことを手放しに勧める態度はおかしいと思う。
 本にふりまわされて、いたい目にあった経験がぼくにもあるから。

「胃がん治療ガイドライン・一般用」日本胃癌学会(金原出版)
は読み始めましたか?
 「がん」については、一般常識や、一般通念では説明しきれないことが数多くあります。この本は、難しいことが、あまりレベルをおとさずに書かれています。イラストもわかりやすい。
(これは、看護師の雑誌「エキスパートナース」の別冊の、手術の本のイラストと同じ作者によるイラストですが、とてもいいイラストだと思います)。
 読むことが、必ず、あなたと主治医との距離を縮めます。
 
 「胃がん治療ガイドライン」を読んで、主治医の先生に話しを聞き、看護師さんや、手術経験者の方から話しを聞き、インターネットでいろいろ調べ・・・。
それでも、でてこないことを、ここで、あなたに伝えていければ、と思っています。

なぜ、自分だけが、癌で苦しまねばならないんだろう?
本当に、手術は必要なんだろうか?
手術しない方法は本当にないのだろうか?
手術しなければどうなるのだろうか?

 そういうことに答えていければと思います。
 そして、目の前の、病気から逃げずに、きちっと治療をうけ、胃がんをなおしていただきたいと願っています。

      *

 書き始めると、ぼくは筆がとまらなくなるのを自分で感じていた。
 書いているうちに、これはペシェのために書いている手紙なのか、自分のために書いている手紙なのかわからなくなるような感じさえあった。

    *      *      *
 
前略 ペシェこと太田誠二様

 あなたは、主治医の先生から、病状、手術の方法、危険性、手術後の生活、予後などについてひととおり説明を受けておられたと思います。
 もう一度簡単にふりかえってみましょうか?

 あなたは胃がんで、早期がんではないが、手術をすればなおる見込みがある。胃を下3分の2とって、残った胃と十二指腸をつなぎあわせる(吻合する)幽門側胃切除という手術予定。
持病に軽い糖尿病があるが薬をのむほどではない。
心臓、肺、腎臓の検査では異常なく、手術には十分耐えられる。しかし、術後、縫合不全や肺炎や肺梗塞、心筋梗塞などを起こす可能性は皆無ではない。
また、胃を3分の2切除することで、手術後は、今までと同じように食事はとれず、体重も5~10kgは減るだろう。
そういう悪い点があるのに、やはり手術という方法をとる方がいい。
なぜなら、胃がんに対する抗がん剤はいまだ効果が不十分であること。
内視鏡で切除すると、胃の周囲の転移しているかもしれないリンパ節がとりきれない可能性があること。

可能性がある。
不安を誘う言葉でしょうが、それ以外の表現はむずかしいのです。
がんは、細胞の変化です。
机の上にいる細菌が見えないように、がん細胞は検査でも手術のときでも、人間の目で(たとえどんな最新の検査器具を使っても)見ることができないのです。
見える病変は、すでに相当数のがん細胞が集まった状態なのです。
これでは、ますます寝られなくなってしまいそうです。
みえない相手と戦うということ。
それが、がんという病気の本質で、けっして完全に消えることのない不安の原因です。
だからこそ、この現状をしっかり意識して、じゃあそれについてどういう態度でいこうかと考えることが大切です。

手術でとりきれる可能性が高いが、とりきれないこともある。
手術でとりきれても、再発の可能性は皆無ではない。

医者の説明はどうしてまわりくどいんでしょう?
なぜ、100%安全に手術ができます。手術により、完全に治療できます、といってくれないのでしょうか?
胸をはって、おれにまかせれば絶対だいじょうぶだ、とどうしていえないのでしょうか?
そんなに自信のないことでは、こちらが不安になってしまう。

 現在、手術にともない死亡する割合が統計的に5%以上あるような手術は、一般病院ではおこなわれません。
 参考までに数字をあげますと、1905年ごろ、胃がん手術による死亡率は30%超えていました。1940年前後は20~30%。手術死亡率が5%をきるようになったのは1980年代にはいったくらいからです。
単純にこの数字だけみても、この100年の間にずいぶん医学は進歩したものだと思いませんか?
大学病院など一部の特別な施設では、手術死亡が5%をこえるような、実験的手術がおこなわれます。これは、人体実験ではなく、生きる可能性、あるいはより延命効果を望んでいる患者がいるからこそ、行われます。事前に説明があるはずです。そして、そういう危険をともなっても可能性にかけたいという方は確かに存在するのです。
そういう実験的な手術でなくても、100人手術すれば、数人が手術により死亡する可能性がある。もちろん、体の弱いお年寄りや持病もちの方がそのなかの大部分ということはおわかりでしょう。
しかし、近年の医療訴訟の報道をみると、明日はわが身でないという保証はなにもない。確率の数字がいくら低くても、あたった人にとっては、その低い数字はなんのなぐさめにはなりません。そして、かけの対象が命だけに、運が悪かった、というだけであきらめてしまうにはいかない。
医療ミスだったのではないか、という話になるわけです。
なにをもって医療ミスとするかは個々のケースで難しいですが、どんなに医学がすすんでも、手術死亡がゼロにはならないのは仕方がないと、われわれ仕事をしている立場からいえば思えます。
(とはいえ、いざ自分が医療をうける側になってそういう問題にまきこまれたら、どうにも割り切れない気持ちにきっとなるでしょうが。)
そして逆に、胃がんの手術で死亡する方というのは、本当に運の悪い方だと思います。生命運、みたいなものをそこに感じざるをえないというのはぼくだけでしょうか?
結局、現代の胃がん治療の問題点は、手術死亡率ではなく、手術後の5年生存率、再発率ということになります。
これについては、主治医の先生から数字を教えてもらった方もおられると思いますが、念のため、1986年の21906例の全国集計の数字を書きます。
残念ながら、この20年、胃がん治療において大きな進歩はみられておらず、現在もだいたい同じ数字と思われます。
5年生存率は、胃がんの壁深達度(進行度、あるいは、深さ)によって異なります。手術前の検査で、ある程度見当はつきますが、実際には、手術後の胃を顕微鏡検査しなければ正確なことはわかりません。

胃がんの深達度別の5年生存率。
1 粘膜内:100%
2 粘膜下層まで:95%
3 筋層まで:79%
4 しょう膜下層まで:52%
5 しょう膜露出(胃の壁を破る):31%
6 多臓器浸潤(胃の壁を破り、近くの他臓器へひろがる):22%

あなたのがんは進行がんで、3番目か4番目の分類に入りそうです。
では、この79%、52%という数字をどう考えるでしょう?
まず、予後(5年後に生存しているか?)について話す時、確率でしか話せないという事実はどういう意味か考えましょう。
5年後に生存している確率が50%あると考えるか、それとも5年後までに死んでいる確率が50%と考えるか、数字は同じでもその人の態度としてはずいぶん違います。
95%といわれた人の中にも、手術後再発の可能性が5%あるということで、夜も眠れない人もいるのです。
これは、個人の性格にもよると思います。
ひとつ確かにいえることは、この数字は、あなた自身の未来についてはっきり予測するものではないということです。
統計の数字は取り扱い要注意です。手術後再発の可能性が5%しかない、ということでも、その5%にはいった人にとって、5%という数字がなんの意味もありません。
生きてみないとわからないのです。
そして、現在のところ再発を完全に抑える抗がん剤や健康食品はないということ、善人でも悪人でも精神的なものと無関係に病気は進行するということをふまえたとき、なるべく精神的に平和がたもてるように自分の心をコントロールしていくのが最良と考えれば、どちらの態度が良いかということはお分かりでしょう。
けっして誰でも簡単にできることとはいいませんが。

話しついでに、もうひとつ統計上の確率の話をしておきましょう。
あなたの場合は、いわゆる進行度の高い状態だから、胃をとるということに、大きなためらいはないでしょう。
しかたがないか?ですんでいるかもしれません。
もっと早い段階でみつかった方の場合、胃をとる必要はあるのか?胃をとらなくてはいけないほど自分の病状はすすんでいるのか?という疑問をもたれます。
この疑問は、もっともなのです。
なぜ、胃の病変部だけをくりぬくようにとらず、術後機能低下を引き起こすような、胃切除術をおこなうのかというと、胃の壁にある原発巣からはなれた胃の周囲にあるリンパ節へ転移している可能性があるからです。
ほら、またでてきました。可能性という言葉が。
じつは、胃切除がおこなわれる、ある段階の早期がんで、胃の周囲にあるリンパ節へ転移している可能性は10%以下といわれています。これはつまり、100人の患者さんのうち90人までは、結果として、無駄な手術をしている、ということになります。
ひどい!と思われます?
無駄な手術をされた結果、体重が10kgも減り、おなかいっぱいごはんが食べられなくなったことに対して、訴訟をもって損害賠償を考えたほうがいい?
(残念ながら、どんなに言葉を尽くしても、そう考え、実行する人がこの世の中にはいるのですが)
ぼくらは、こう説明します。
あなたは、ある段階の早期がんで、その際、胃の周囲にあるリンパ節へ転移している可能性は10%。しかし、現状の医療では、その10%を予測することはできない。
(こういうと、私の先端医療技術では予想できる、といいだす根拠のない自信をふりまわす人が必ずでてくるのですが)
それをふまえたとき、胃の周囲にあるリンパ節の切除(郭清といいます)をする胃切除術(郭清すると、胃への血流がなくなる問題で、胃切除術とならざるをえません)でなく、病変部だけの局所切除を選択しますか?
ぼくの経験では、ほとんどの人が、胃切除術を選択されます。外科医のジレンマのひとつですが、抗がん剤の効果が不十分な現状では過剰手術もやむをえないかな、というのが正直な気持ちです。

            *

 本当に、現在のところ再発を完全に抑える抗がん剤や健康食品はないのでしょうか?
 ひょっとして、他人にはだめでも自分の場合には見事に効くような、ためしてない他のものが、今存在する方法の中にあるかもしれない?あるいは、現在、アメリカで臨床治験中の新薬が、よく効くかもしれない。
 
 しばらく、そのことについては考えるのを後回しにして、別のことをここでは考えてみましょう。そして、こういう態度も、上のような疑問に対する回答のひとつだとぼくは考えます。

 あなたは、なぜがんがこわいのか、人を死にいたらせるのかわかりますか?
がんを苦痛と死をもたらすエイリアンや幽霊のようなイメージでとらえていませんか?たしかにガンはエイリアンや幽霊のように、よくわかっていない対象ですが、もう一歩ふみこんで理解することは可能です。
なぜがんができるのか、という問題は、なぜ地球が太陽のまわりをまわっているのかという問題と同じように回答不可能です。
しかし、どうやって地球が太陽のまわりをまわっているのかについてはいろいろ研究でわかっていると同じように、どうやってがんができるのか、という問題については研究がすすんでいます。
これについては専門書にゆずることにして、少し別の角度から答えてみましょう。
がんが進行していくことが、どうやって人に苦痛を与え、最後に死にいたらせるのか考えてみましょう。

1 がんは腫瘤をつくる。その腫瘤はどんどん大きくなる。大きくなった腫瘤が、人間の体の中にある、さまざまな『管』をふさぐと、流れるものが流れなくなり問題をおこす。

例えば、腸管(食道・胃・十二指腸・小腸・大腸・直腸)がどこかで腫瘤によりふさがると、食べたものは便になりでることができないので入口への逆流現象で嘔吐します。嘔気もでます。では、食事をしなければこの苦しみはなくなるかといえば残念ながらそうはいきません。
人の腸管には、食事をしなくても、消化管から分泌された液(胆汁、胃液、膵液、腸液)が一日に2ー3リットル流れ込み、吸収されるのです。途中でつまった腸管は流れてくる消化液を吸収できなくなり、食べてなくても嘔気をもよおし、嘔吐するのです。
腸閉塞とよばれます。
胆管という、肝臓から十二指腸に流れ込む黄色い胆汁(これが便の黄色の素です)の流れ道が腫瘤によりふさがると、胆汁は逆流して体全体にひろがります(便は、白くなります)。
これを黄疸といいます。黄疸が続くと肝臓がまいってしまいます。
尿管という、おしっこの流れ道がふさがると、尿は逆流し腎臓がはれて、腎臓はまいってしまいます。その後に、体の老廃物・毒物が体にたまって死んでしまいます。
気管という、呼吸する管が腫瘤によりつまれば窒息します。

2 体にはいった栄養を、がん組織のほうが、正常組織よりも多くぶんどってしまう。

増殖が速いガンは、血液中の栄養をとりこむ門(入口)が、正常組織よりたくさんあります。体の栄養をガンがつかっていくにつれて、体は痩せ細って行きます。
極端なことをいう人は、がんになった人をなるべく生き延びさせるには、栄養をあたえないほうがむしろ有効だとさえいいます。がんが大きくなれないからです。栄養をたくさん与えすぎると、その人が太るためにつかうぶんまでがんが奪ってしまい「がんが太る」のでがんの進行は逆に早まり死期をはやめる、という理屈です。
でも、これは単なる理屈で、実際はそんなことはないようです。栄養をとらないことで、がんの進行は抑えられるが、逆に死期を早めることだってあるわけですから。
最近の報告では、腫瘍そのものから、脂肪や筋肉をおとす(やせさせる)物質がでているのが、がんの末期に体が痩せ細ってくる理由として有力です。
とにかく、いくら栄養をとっても太れないという状態にがんが大きくなるとなっていきます。
治療が無効に終わったがんの患者さんは、序々に、餓死寸前のような状態にむかっていき、その半数近くが、「餓死」するというのが現実です。
最初、目にみえない1個のがん細胞(重量はほぼ0g)が、検査で人間が見つけられる診断可能なまでの大きさになったころの腫瘍の重量は約1gです。
その重さになるまで10年以上かかっているといわれてます。
それから重量の増すスピードは、がんの種類や治療の経過により様々ですが、このような、「餓死」をもたらすような状態のころには、体の中の腫瘍(がん)の重量は約1kgに達しているといわれてます。

3 がん細胞から、体にたいする有毒物質が産出される。

有毒物質として、体の血を凝固させてしまう物質や、食欲を失わせる物質や、やせさせる物質や、心・肝・肺などをそれぞれ弱らせる物質などがあり、がん細胞が大きくなるに比例してその産出量もふえていきます。
ガン細胞の個性によってその産出するものがちがうのですが、あるときは、がんが体の中の『管』をふさぐまえや、がんにより人がやせ細る前に、この有毒物質がそのひとの命を奪うこともあります。一般的にがんの終末期はゆっくり病状が悪化していくのですが、この場合は例外的に、急激に状態が変化していく「急死」となることが多いです。

(胃)がん、の進行から死へのみちのりの、主要な人間の状態は、このなかでも2の低栄養です。
半分近くの方が、低栄養から、呼吸筋がげっそりおち、呼吸ができなくなり、呼吸停止というみちのりをたどります。
もちろん1とか3とかが死亡の直接原因となることもあります。
あるいは、嚥下する筋肉がおち食べ物を誤嚥して肺炎をおこし、体の抵抗力がおちている状態では、感染をおさえる力がなくそのままなくなられる、といったこともあります。

 がんが進行していき、人が死にいたるまで、どういう症状がどんな順番ででてくるかを正確に予想することは不可能です。残りの寿命がどのくらいかを予想することも難しい。
 医者があと3ヶ月といえば、1ヶ月のときも6ヶ月まで幅は広いのです。1年はむずかしそうだという感覚です。より正確な言い方をすれば、統計的にみて、10人中5人のかたが3ヶ月以内になくなる、という風になります。
ですから、そういうケースでは、残りの10人中5人は、1年以上とか逆に1週間くらいになくなるだろうということなのです。
残念ながら、検査や今の状態の観察などから、特定の個人の、客観的に残された余命を正確に占うことは不可能なのです。
これは、先ほど使った「余命3カ月」ということばの解釈だけでなく、「5年生存率」ということばの解釈でも同じです。
「5年生存率」が20%ということは、たとえば10人、似たような状態の患者さんがいたとして、今から5年間の間のどこかのばらばらの時期に計8人が死に至る。逆に、10人のうち2人の人は、5年すぎても行き続けるという可能性を示しているということです。
 いずれにせよ、がんのすすんだ段階では、低栄養を背景に、全身の臓器の機能や抵抗力がおち、やっと生命を保っているという状態になり、いつ急変するかわからないという状態になります。
 がんにより、どんなに栄養を外から摂っても、低栄養がすすんでいく現状。
 腫瘍を小さくすることはできないが、この不可避にすすむ低栄養を改善する薬があれば、もう少し寿命がのびるようになるかもしれません。
もちろん、それは、対症療法のような表面の現象をおさえるだけの力しかなく、やはり、抗がん剤がねらっているような、腫瘍を小さくするとか大きくさせない、という薬こそが本質であり王道でしょう
 それでも、健康食品がうたう「免疫力をつける」というあやふやなものでなく「低栄養状態の進行をふせぐ」というキャッチフレーズがあれば、ぼくは、そのあやしげな薬を開発した人は、少しはがんのことを知っているとおもうでしょう。
 しかし、残念ながら、現状では、どんな栄養療法も、低栄養状態の進行をふせぐことはできないのです。

 ここまでの話で、目の前の病気から逃げずに、病院できちっと手術治療をうける必要性が少しでもわかっていただければと思います。
手術治療をうけて、胃がんをなおしていただきたいと願っています。
チャンスはまだ十分残されているのですから。
にげだせば、チャンスはなくなってしまいます。

      *     *       *

 書き終えたこの手紙を読み直して、少し考えて、結局、ぼくはこの手紙をペシェにわたさないことにした。
 理由は様々だ。
 それは、ぼくが外科医として、手術治療や、抗がん剤治療や緩和医療をおこなっていたとき、ぼくはすべてを知っているわけではないが、知っていることのすべてを患者に話したわけでもなかった理由ともつながっている。
「不幸なニュース」の告げ方には、ショックをなくすことはできないにせよ、それを少しでもやわらげるためのテクニックがあるのでそれをできるだけ使うべきだからだ。
 もしかしたら、この手紙には一部、少し書きすぎたところもあるかもしれない。
 それと「知る権利」だけでなく、「知らない権利」というのもある。
 この手紙に書かれた内容を、ペシェが知りたいか自信がなかった。
 なにより、ペシェはこれから治療にはいるのだ。
 治療がうまくいかなかったことを先走っていうのは、いたずらに不安感をかきたてるだけだ。必要なときに必要なことをいえばいい。

 世界はあるがままに見えるのでなく、見えるがままにあるのだから。

 そういうわけで、ぼくはこの手紙を結局ペシェにわたさなかった。
 しかし、この手紙以降、ペシェにあてて書いたが彼に結局わたさずに終わるという手紙がどんどん増えていくことになるということは、ぼくは予想していなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?