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生きるということ。それは自分が光輝くこと

お久しぶりです、皆さん!2週間もnoteが開いてしまったのは、ちょっとシリウスへ戻っていたので・・・Wifiが繋がらなかったんです。皆さんのお住まいの地域もだいぶ秋めいてきたんじゃないですか。私の住んでいるところも、エアコンなで過ごせるようになりました。やっぱり秋がいい。。

さて、今日のテーマは「生きるということ」です。
また、テーマでか!!!って自分でも思っていますが、色々見聞きしていく中でふと思った、考えたことがあり、ちょっと、お付き合いくださいませ。

まず、質問です。

「生きる義務」ってあると思いますか?

チッ、チッ、チッ・・

正解は?

あるかもしれないし、ないかもしれない。この地球に残るも自由、去るも自由。結局は「設定」なんです。

えええ、そうは言っても、この目の前の乳飲み子は、私がいなくなったらどうすんの?とか、まだ大学まで二人の息子を出さないといけない。とかね。確かに「あなた」がいなくなったら、「あなた」の望むような人生は、この子達は送れないかもしれない。でも、その未来はただ「あなた」の設定。もしかするとね、「あなた」がそばにいなくなって、子供達はたくましく、立派に育つかもしれないって考えられませんか?

だからね、「生きる義務」という言葉も、「設定」でしかないんです。

だから、今一所懸命働いて、子供のためにとか頑張っている、お父さん、お母さんはすごいと思うけど、それは、ただ自分が設定したものだから、義務ではないんです。だって、子供を持つことだって自由でしょ。だから、誰も褒めてくれないけど、自分で自分をたっくさん褒めてあげてください。だって、その誰かのために頑張るって決めた、設定したのは自分で、それを何年も何年も続けて頑張っている自分はすごいって。

このnote記事を書く前に、2つのきっかけがありました。

1つは、キブツ八ヶ岳(やつは)というコミュニティで進めているエンディングヴィレッジ。もう1つは映画『4月は君の嘘』。全く関係のないこの2つ。

エンディングヴィレッジは、言うなれば人生の終焉を迎えるために最後まで明るい人生を送るためにそれぞれが自給自足をして、動かなかくなたらみんなで面倒を見て、看取っていく。もちろん、西洋医学式の病院で管に繋がれた最後は迎えない。この世での義務、役割を終えたと思った人が、最後の最後まで輝いで生きる村。私も老人ホームや都会で孤独死を迎えるなら、こんなところで最後の最後まで輝いて生きたい。

映画『4月は君の嘘』。(ネタバレごめんなさい)。ピアニストである母の死後、ピアノをやめてしまった高校生と、病気で余命少ないバイオリスト高校生の甘く切ない物語。主人公のバイオリストの彼女は、譜面を無視した自由で楽しい演奏。一方で楽譜からズレると怒られて育ったピアニストの彼。彼は、彼女との演奏や触れ合いを通して、自分を取り戻していく。一方で彼女は彼との演奏を通し、人生の最後の最後まで輝き続ける。

この2つのお話は、今の私にはハッとさせられたことだった。

そう、生きるってなんだろう?って。前にもnoteで書いたかもしれないけど、そもそも生きる意味って、この体を持って思いっきり地球を楽しむこと。楽しいことだけじゃない。悲しいことだってある。そういう出来事に感情を大揺れさせて、逞しく地球時間を楽しむこと。そう思っている。

だから、この2つの話の根底に流れるテーマは、最後の最後まで輝き続けるってこと。もう高校は卒業しちゃったし、老後まではまだ時間がある。こうしてnoteを書いている時間も、命の時は刻々と刻まれる。エゴだろうが、なんと言われても、noteに書いて、みんなが幸せな人生、最高の地球人生を楽しめるお手伝いができているって、思っている。それも自分を輝かせるための1つ。

あとは、リアルな世界で、どう人生を送っていくか。これまでもそんな節目は何度かあったけど、また1つ転換点を迎えているなって。

未来への心配や過去への後悔をしている時間があったら、今この瞬間にやりたいことを、「やっちゃえ!!!」


#生きること #輝く人生 #人生論 #日記 #思想 #命 #映画批評  

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