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TureDure 38 : プレイフル・ラーニング

オトナのためのウエダゼミが2023年11月11日ー12日に吉野のネオ・ミュージアムにて行われた。
メタ認知とファンダムをテーマに岡部大介『ファンカルチャーのデザイン』が課題図書として2日間。

はじめて訪れたネオ・ミュージアムは貯木による杉の香りが漂う場所にひっそりと佇む学びのアーキテクチャ。

バルコニーでモンドリアンの"ブギウギ"をサークルになってみんなで描き、自己紹介を回してすでに3時間。寒くなってきたのでネオ・ミュージアムに入る。

一階の経験のフロアは7m×7m×7mのCUBEになっていて、爆音の音楽にあわせてカンデインスキーを呼び寄せる。

私たちの上にはスマホが設置され、活動する私たちを真上から見下ろす。これはメディアによって拡張されたメタ認知を示す。これまで知覚したことのない角度からワークショップを文字通り俯瞰する。参加した私たちは真上からの知覚イメージをインストールした。

水平方向に活動状況を眺めながらも俯瞰のイメージも同時上映する中で、メタ認知に関する漫才をLMOの二人が披露。ミルクボーイ・フレームによってメタ認知を構成する。

夜はカレー。ぼくは野菜を切ってお茶を淹れた。築100年の平屋にてオンラインゼミがスタート。メタ認知からファンダムへ。つながりのなかった2つのコンセプトがBTS研究で手を繋ぐことになる。身を投じて"沼る"、徹底的に好きで同調するからメタ認知が生成するモメントの発見。岡部先生がとても喜んでくれて嬉しかった。ファンダムの沼/深淵、そのさらに奥はきっと澄みわたっているのだ。

ゼミ終わり、残ったカレーとビール。「上田先生にとってメタ認知とはソーシャルな概念なんですか?」という問いかけからはじまったキッチンカウンター・ダイアローグは上田先生と一対一でおよそ一時間続いた。テーマはファシリテーターの身体性。同志社女子大学での最終講義で言っていた「ワークショップはどれだけコンセプトを身体にまとえるかが勝負だ」ということが印象に残っているという話を聞いてニコリとする上田先生。ワークショップにおいてファシリテーターが誰よりもそのコンセプトに感動していて、大切だと思っていて、楽しいことだと思っていることが参加者にもアフェクトする。その情動反応(Feeling)が構成的に意味付けされて思考(Thinking)となる。しかし、好きになること、ファンダムを形成することはともすれば"イタい"ことになりうる2000年代以降の過剰性を忌避する若年層にとってこのアフェクトがかなり困難になっているのではないかとして終話。

居間では他の参加者のみんなが穏やかに熱いダイアローグを展開。そこに加わり上田先生のこれまでの現場の話やプレイフルな場における食べ物や飲み物の役割について。セサミストリートがテレビを教育メディアにした革命的な意義、インストラクショナル・デザインにおける目標設定はセサミストリートにおいてアーティスト間の共通認識のために用いられていた話、話して午前3時。

2日目。

午前8時起床。「こうきさん、今日インプロやってもらいたいんですけどいいですか~?」と言われ、「あ、は~い」と答える朝。

9時30分にネオ・ミュージアムに。3階の意味付けのフロアでコーヒー、ホットワイン、クロワッサン、ソーセージでモーニング。ネオミュージアムには上田先生のこれまでのワークショップの企画書や議事録、記録映像のVHSが大量にアーカイブされていて、なんだこのデータの宝庫は!とうち震える。それらを全部食べたい欲求に駆られる。

「上田先生のライバルっているんですか~?」と聞いてみると神妙な面持ちで「ジョン・レノン死んでまったしなぁ~」と返ってくる。これからの学びの風景として、カフェだと1990年代初頭に思い、パリに赴き10日間くらいずっとカフェに座っていた話、日本にスタバの一号店ができた時にゼミ生を連れて行った話、ゴダイゴの話、チクセントミハイ、パパート、デュエックの話をしながらコーヒーを飲む。

再び経験のフロアへ。ドラムサークルをしながらイナネイとか色んな歌を歌った。手を叩いたり踊ったりしながらドラミング。同じビートに乗っかるから多様なリズムが遊びはじめる。ビートはプレイグラウンドだなぁと思う。ちゃんとお肉のついているところで叩かないと痛い。we-nessが立ち上がり、ここだったら遊んじゃってもいいかってバイブスがブイブイ。

そしてインプロ。使うかもしれないなと思って持ってきたサメのぬいぐるみを使って遊ぶ。サンキューゲームをしながら短い即興演劇をたぶん5個くらい作った。カレーを食べながら上田先生が言ってた「上を見上げること」を考えながら。

上田先生から「お昼ご飯はやめて、ぼくのこれまでの話をしようかなと」ということで、プレイフルラーニングって何なの?ってことを理論的バックグラウンドから実践レベルにどのような関数を想定しているかをプレゼンテーション。セサミストリートから、パパート+デュエック、そしてヴィゴツキーの発達理論を場の理論に置き換えていくプレイフル・ダイナミクス。

チェックアウト。一人ずつこの2日間で感じたことを言語化する。ぼくはあまり使いなれた言葉でなく、より自分の身体に起こっていることにフォーカスを当ててみたくなった。そこで浮かんだキーワードが「ホームベース」だった。たった2日間だけでネオ・ミュージアムという場所があまりに居心地がよくてずっといたくなったという感覚と、上田先生のソリッドな理論的なバックグラウンドとソフトでピュアリーなコミュニケーションに触れて、その人間観や教育観、学習観、ワークショップ観の"解釈一致"が過ぎたのか。話しはじめてもうただボロ泣きした。

どうして教育や学びが「誰かと一緒に楽しむために」じゃなくて、「隣のあいつより得するために/楽するために/取り残されないために」によってモチベーティッドされていくことがずいぶん長いことなされてきたことへの違和感。学びがどうして喜ばしい活動としてではなく、辛く、苦しい活動としてだけでしか認識されないのか、そしてその価値観を教育機関が率先して再生産し続けるのはなぜなのか。

ホームベースが縮減し続け、バトルフィールドが拡大し続ける社会力学の中で、教育までもがバトルフィールドになってしまわないようにしたい。

なぜ教育的介入は、子どもたちや多様な学習者たちに"力"ではなく、不安や焦りや無力感を与えるようなことばかりなのか。

より大規模言語モデルに基づいた世界の中で人間が置き換え可能な物(Replaceable it)になることへの不安を感情的な動機付けにするのではなく、それぞれが唯一無二な存在としてそこにいる二人称的空間でこそ人は教師やファシリテーターから力を手渡され(エマソン的に言えば内なる光を手渡され)、できるかどうか分からないプロジェクトを多様な人たちと作品化していけるような活動や場を生成していくことが可能になるのか。

力の贈与。これが教育の言い換えだとすれば、私はその贈与行為の持つパフォーマティビティにずいぶんアフェクトしてしまったようだ。

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