見出し画像

True Dure 37 : インプロのパフォーマンスをする時に考えていること

ちょっと前にインプロ(即興演劇)のワークショップをする時にぼくが考えていることを書いた。今回は、インプロのパフォーマンスをする時にぼくが考えていることを書こうと思う。というのも今年に入ってから劇場でお客さんを入れてインプロショーをする機会が多く恵まれていることもあり、書きたくなってきたからだ。

インプロは即興演劇のことなので、即興で演劇を創る。「どこまで即興なんですか?」と十中八九聞かれるが、本当にほとんど何も決まっていない。イメージとしては、お客さんから架空の映画のタイトルを言ってもらう。

たとえば「風のセレナーデ」みたいなタイトルを採用したとして、あとはもう照明が消えてついたら「風のセレナーデ」が上演される。もちろん自分が何の役をするのかも分からないし、誰と愛し合って誰と殺し合うのかも分からない。そんな感じでパフォーマンスを行うのがインプロだ。

「そんな未完成なものをお客様に見せて良いものだろうか」という向きもあると思う。実はぼくも全然そう思う。インプロの本番前にはいつも思う、“なぜぼくは即興なんて不確実なものをやっているんだ・・・”と。大体いつも絶望していて、入念に準備されて、強度のある作品を稽古して上演に臨みたいと常々思う。

とはいえ、ぼくはインプロのパフォーマンスをやる時にいろいろとそれなりに大事にしていたりすることもあるので、まぁ、ちょっくら言葉にしてみよう。

ちょっと寄り道してインプロ(即興)の作品性について思ったこと。
インプロをポジティブに評価する時によく使われる言葉の中でぼくが特におもしろいなと思っているのは「即興とはまるで思えない」という感想だ。ぼくはこの感想はとてもおもしろい感想だと思っている。なぜなら、これはある即興パフォーマンスが評価される時にその「即興性について」の評価ではなく、いわば準備性というか作品性というか、とにかく即興的“ではない“ことが即興の評価として流通している一見矛盾した論理を感じるからだ。即興パフォーマンスを評価するのだからスムーズに考えればいかに即興的であるかが評価指標になりそうな気がする。しかし、「即興とは思えない」という評価は“非即興的“であることがまるで即興の美学的判断の指標であるように見える。
すなわちぼくたちはインプロに対して“即興らしさ”を求めているわけではないのかもしれない。しかし、インプロのパフォーマンスが非即興性を目指すのであれば、単にちゃんと台本を書いて、稽古してちゃんと作品にすればいいじゃないかと思う。だがそうなるとじゃあわざわざ即興をする理由はなんですかという話になる。こんな感じで即興をめぐる美学的判断はややこしい。

「ここで終われる!」という瞬間を探す

インプロのパフォーマンスでの悪夢は、「もう終わらせたいのに終わらない」ということだ。誰もがそのシーンに退屈していて、飽き飽きしていると誰もがうすうす感じているのに、全然終わる気配がない。これは最も避けたい事態だ。(実は「終わらない上演」という悪夢は別に劇世界だけに限った問題ではないのだけれどそれはまた別のところで)

だからこそ基本的なスタンスとしては、そのシーンを終わらせられる時には即座に終わらせるというのが重要だ。「もしかしたらこの先もっとおもしろいことになるかもしれない」という期待は大方ハズレるし、もし誰もがそう予感していて、誰もがもっと続きが観たいならば、別にまた再開すればいいだけの話だ。

照明もバンバン落としてもらう。もっと続けたかったら「もっと続けたいから明るくして〜」と言えばいいだけである。

ともかく、シーンを終わらせる決断にビビってはいけない。即興でやっているのだからダメなシーンはさっさと切り上げてまた別のシーンを作っていけばいい。インプロはそうした意味で「使い捨ての演劇」であるから。

高いコミットメントを要求しない

これはパフォーマンスの話というよりももう少しマネジメント的な話なのだけれど、大切なことなので書いておく。
インプロは即興で演劇をつくる、そこには確かにトレーニングや訓練や芸術理解があればよりよいパフォーマンスになるという論理は本当にその通りだと思う。ぼくも完成度の高い作品は好きだし、ふつうに観たい。

しかし、インプロ公演を企画する時にはそうではない、周縁的な考え方をしている。インプロのよいところの1つはとにかくコストがかからないことで、そこに着目すれば、普段はフルタイムで働いていて、台本を覚える時間もなければ土日の予定が直前にしか分からないとか、とにかく可処分時間はバイトや労働に割きたいといった人であっても舞台に立ってもらうことが可能だ。

これは本当に素晴らしいことだと思っている。だからぼくは、インプロの公演に出演してくれたり、応援してくれる人が困らないでとか引け目を感じずに楽しんで欲しいなと思いながら企画している。そうじゃない公演はもう関わってもらえなくなちゃって、続かなくなくっちゃう。それはいやだ。

とにかくインプロではどんな濃度のコミットメントも受け入れられる、そしてそれで楽しいという状態を維持できれば、インプロを続けることができて、それはつまり大量に演劇作品をつくり続けることができるということなので、もしかしたら50年後とかにすげぇいい作品ができちゃうくらいの創作集団に成り上がってるかもしれない。それくらいの可能性をぼくは信じている。

短期間にぐわっとつくることもそれはそれでよいが、ぼくはやはり色んな人たちとインプロできることの方も楽しみたいので、とにかくコミットメントのハードルを高くしないでいる方がその機会に恵まれやすい。

50年後もインプロしていたい

これはもはや願いなのであるが、この視点はぼくにとってとても重要である。インプロは企業研修だとか学校教育だとか医療現場だとかけっこう色んな領域に応用の範囲を広げていっている。これは当事者としてとても喜ばしいことだ。なぜなら、いろんな人がインプロを知ってくれれば、もしかしたらパフォーマンスにも興味を持ってくれて劇場に来てくれるかもしれないからだ。何なら一緒に舞台に立てるかもしれない。普段はお医者さんだったり、エンジニアだったり、校長先生だったりする人たちとインプロでつながれる機会に恵まれていることはとても幸運なことだと思う。

ただ、やはり大事なのは一時的な流行りになってしまって、損得をモチベーションとするような関わりになってしまっては一時的にはいいかもしれないけれど楽しくなくなっちゃって、みんながインプロって微妙だよね的なグルーヴが生まれちゃってはやっぱり悲しい。

いろんな人たち(ここには世代とか国籍とか職業とか政治的立場とかありとあらゆる属性を想定している)と50年後も一緒にインプロをしてゲラゲラ笑っていられるにはどんなことに気をつけなくてはいけないかということを結構マジがちで常に考えている。

ぼくは今年で29歳だ。50年後は79歳。この時点でたとえば20代の人にインプロを面白がってもらうためにぼくはどんな勉強をしていく必要があるだろうか、どんな実践を積んでいく必要があるだろうか、どんな価値観・構えを身につけておく必要があるだろうか。そんなことを徒然なるままに漠然とよく考えている。

考えれば考えるほどむちゃくちゃ激ムズな願いだと思うが、ぼくのあらゆる努力の動機づけにはちょうどいい視点である、今の自分の行いは50年後も通用するだろうか?という問いは自分から距離をとって眺めるのにはちょうどいい。

幸運を意志する

ほとんど技術的な話をしていないが、まぁ、今のところのぼくにとって大事なのはこんな感じだ。最後に書くのは「幸運を意志する」ということだ。

インプロは即興だ。即興が教えてくれるのは、「大体のことはアンコントローラブル(操作不可能)なんだけど、実はそれもこうすると楽しいよ」ってことだ。自分が思い描いていた物語は絶対にできない。自分にできることはその時に必要な役割を必要なだけ担うということだけである。

だからと言ってただ完全なる受動的な態度でいてはもったいない。意味不明なパスが誰かからやってくる、それに対してたぶんこうした方がいいんだろうなぁって役割が回ってくる。そんな中でただ毎回受動的にばかりなってしてはきっと楽しく無くなってくるだろう。

だから時々、必要な役割を受け入れつつも、ちょっと仕掛けてみる。これは操作とかコントロールとかとは異なるその場への能動的な関わり方だ。自分のアクションがもしかたらもっと楽しい方へ傾いてくれるかもしれない、そんなひとかどの願いを込めて、いつもとは違うパターンのアクションを仕掛けてみる。それは場を混乱させるかもしれないし、幸運が訪れれば、仲間たちが面白がってくれて誰も予想しなかった方へ私たちを連れて行ってくれるかもしれない。

こうした幸運が訪れる可能性にビビらずに、意志する。
こうすると、楽しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?