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罪悪感を抱けという圧力

 「マジョリティ諸君はこの作品を純粋に楽しんではいけません」というのが増えた。これは端的に言えば“少数者を消費していることを意識しなさい“と言うものである。それで純粋に楽しめるのであろうか。そんな風潮の中では作品に没入し、純粋に文化を享受する機会が失われる。作品に触れる度に“勉強“を強要される。それでは敷居が高くなり、手が出しにくくなる。その結果文化の享受が高尚なものになって返って知られなくなってしまう。それでは本末転倒ではないだろうか。これは持論なのだが、少数者を作品において取り上げることの社会的意義とはその存在を知ってもらうことにあるのではないだろうか。とある作品に触れたことがきっかけで知ることができた、興味を持ったというのはどの分野であってもよく聞く話だ。知ってもらうきっかけとしての作品の意義は確実にある。

 そもそも何故人は文化を、作品を享受しようと思うのか。別に勉強したいからではない。学びたいからでもない。そうしたいのであれば神保町か大手町の丸善にでも行ってハードカバーの分厚い本や新書でも買うかネットで論文を拾って読んでいる。博物館にも行くだろう。現地に赴く人もいる。創作物よりも実態に目を向けるはずである。であるならば作品に触れるのは、芸術に触れるのは、きっともっと別の理由がある。
 
 その理由は何か。「惹かれたから」それだけである。
絵が好き、この作家が好き、なんか惹かれた、様々な要素によって、惹かれたから触れようと思う。故に作家や編集者は作品を魅力あるものにせんと心血を注ぐ。それこそが芸術の、作品のあり方であったはずだ。作品に触れて、感じる。そういう自己の心のうちの機微を楽しむものであった。と自分は思っている。勿論楽しみ方は多様であるが、勉強をするためだけではないし、ましてや勉強を強要されたり説教されたり、罪悪感を抱かされるために触れているわけではないだろう。
 今までそうやってこれたのは今まで我慢していた人が透明化されていたからですよと言われたらそれまでかもしれない。しれないが、「多数派は少数派を取り上げた作品を罪悪感を持って見るべき」とでも言うような空気感はちょっとずつ少数者の関わる作品への抵抗感を生み出していく。ポリコレが嫌われたのはそこなのではないだろうか。そもそも人間はリアルを学ぶために、ましてや説教されるために作品に触れない。何故作品に触れるのかというもっと純粋な部分を怒りに囚われた人達が思い出すことを切に願う。

 多くの法学者が日本人は人権意識低いと嘆いた。しかし現代においてそれは改善されつつあるだろう。人権意識が醸成されてきた結果がポリコレ同調圧力なのであり、怒りの強要なのであり、説教臭い人の増加でもある。個人で罪悪感を抱くべきとし、抱く分には一向に構わないのであるが、大体はその域を超えて罪悪感を抱かない人はけしからんと怒るようになる。「多数派は反省しなさい!」という圧力に常時晒される多数派が次第に疲弊し、結果ポリコレを憎むようになるのは無理もない。ポリコレ疲れだ。正直少数者である自分もだいぶキツくなってきた。頼むから、普通に触れさせてくれと思うこともある。

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