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愛知県芸術劇場 × DaBY ダンスプロジェクト / 鈴木竜 × 大巻伸嗣 × evala『Rain』2023ツアー

愛知県芸術劇場 × DaBY ダンスプロジェクト / 鈴木竜 × 大巻伸嗣 × evala『Rain』2023ツアー
https://rain.dancebase.yokohama

■全体概要について
原作:サマセット・モーム『雨』
イギリスの小説家・劇作家サマセット・モーム(WillamSomersetMaugham/1874-1965)により、1921年に発表された短編小説。感染症により閉の島に閉じ込められた医師と宣教師夫妻たちが値泊先で出会ったのは、品性下劣で信仰心のない一人の女性であった。雨が降りしきる閉鎖空間で過ごすなか、それぞれの人物の価値観の違いから生まれる心情や軋轢、そして予想外の結末が描かれる。

演出/振付:鈴木竜
美術:大巻伸嗣
音楽:evala
企画/共同制作:Dance Base Yokohama/愛知県芸術劇場

■ Dance Base Yokohamaについて
「Rain」の企画を行うDance Base Yokohamaは、複合芸術であるダンスの発展のため、
振付家やダンサーといったアーティストのみならず、音楽家、美術作家、映像作家、照明デザイナー、音響デザイナー、またプロデューサーやプロダクションスタッフ、批評家、研究者、そして観客の交流拠点となり、
ダンスを巡る多くの人々が垣根なく集える磁場=プラットフォームとなることを目指し、クリエイションを行うレジデンススペースである。

地域のアーティストや市民との交流も行い、ワークショップや実験的なトライアウト公演の実施や、ダンスアーカイブ事業など、多様な展開を試みる集団であることに、興味を持った。

トップに振付家があり、そのヒエラルキーの元に音楽家、美術作家、ダンサーなどが位置する従来の複合芸術の構築方法ではなく、
それぞれの関係性から表現方法を模索する試みに、僕自身が探している、「モノと人との関係性からモノの造形や在り方を再構築する手段」としてのヒントがあるように感じたから。

■ダンスと具象化について
バレエダンスでは全体構成にストーリーが存在し、説明的なシーンに沿って身体表現を用いられることが一般であることに対し、
現代におけるコンテンポラリーダンスでは、全体構成にストーリーを用いることは少ない。
通常ではむしろ、「フィクションを語ることをどう辞めるか」ということが重要視され、演じることを避け、具象的な見立てられ方を避ける傾向にあるのだという。

そのため、今回のような作者の体験を元にした原作をバックグラウンドとし、
具象的なストーリーを説明的に表現する方法として身体表現を用いる公演自体が珍しいのだという。

描く、描写する、そこにあるものを表現すること、ストーリーそのものが制約となる領域において、
身体の動作や造形を用いた身体表現を行う。「具象的な小説を舞台演出として表現すること」は、
この公演の実験的な面白さの一つであるように感じた。

■トライアンドエラー
現代の日本の社会におけるダンス公演は、初演で一定の完成度が求められる。
その為、公演を繰り返す過程で生じる気づきや変化を公演全体に還元する機会が少ないのだという。
建築や空間、ファッションの領域においても、現代の日本の社会において、
ある一定の完成度、精度を求められることは同様であり、そのことによってトライアンドエラーを
許容できない状態がより強くなっていくのかもしれない。

だからこそ、「モノとしての完成度の縮尺を選択する」ことをモノをつくる過程に内包し、
使い手や纏い手とモノとの関係性を具象化していくことで、
モノの在り方の可能性を拡げていくことのできる作り手で在りたいと思う。

■舞台装置との関わり方
「Rain」では、ストリングカーテンのようなものでつくられた立方体の舞台装置を中心に全体が構成されている。
舞台装置(オブジェクト)とダンス(身体表現)が、公演(空間全体)を構成することによって、公演会場そのものが作品として認識される。

舞台装置と照明の関係性によって生まれる現象とダンスの融合。
それは舞台装置を見る位置(客席)によっても大きく変化する。
居る場所によって音響との関係も異なる。
聞こえてくる音が変わればその公演への印象も変化する。

モノと空間と、それらを体感する対象との関係性が一つの公演を成立させる。
それぞれの境界が曖昧に、流動的に移り変わる過程を介して、物事を認識するということ。
服が空間になり、空間の一部を纏おうとしたかと思えば、纏い手は空間の一部になろうとする。

「個の存在に対する認識の移り変わり」を纏う行為に内包させていきたい。

■他ジャンルとの関係性について

冒頭にも記したようにDance Base Yokohamaでは、振付家やダンサー、音楽家、美術作家、プロデューサー、そして観客の関係性の中でクリエイションを行う集団であり、トップダウン的な思考での構成法ではなく、それぞれが横の繋がりを持つことでの舞台構成を試みている。

振付を元に音響や照明が決められるというより、音響に振付が添えられることもあれば、照明を主軸にダンサーが踊るシーンもあり、
それぞれの関係性が全体の中で移り変わりながら、一つの公演として成立していた。
断片的な表現というより、流動的に流れるような時間がそこにはあって、それぞれのシーンがシームレスに移り変わっていくことを体感する時間であった。

纏うモノをつくる過程の中で、「作り方」を意識的に模索していることがあった。
それは、既存のファッションデザイナー的な概念で纏うモノをつくることが僕の中でしっくりこなかったから。

具体的に纏い手を設定し、オートクチュールとして纏うモノが生まれることの意味を模索していたり、
造形そのものの存在に主軸を置き、纏い手を必要としない纏うモノの在り方を模索していたり、
写真を撮る人や、映像を作っているもらう人の意思に、モノの作り方を委ねてみたり。

作られるモノの作り方に焦点を当て、モノを作っていくことで、
それはモノの在り方の可能性を拡げていく手段になる。

■抽象と具象について

振付師である鈴木竜さんのトークの中で「物語が身体表現に必要となる時代なのかもしれない、、、?」という話があった。
それは、「何を表現していきたいか」という抽象的な概念を、他者や社会に共有するためにも、
ストーリーなどの具象的なものとの関係性を築いていくことが必要なのかもしれない、というような内容であった。

言語や記号は表現行為において、より合理的な手段として用いられることが多い。
それに対して、身体や空間、間、モノを用いた表現方法がある。
間の声を聞く、モノの表情を汲み取る、身体の歪みに惹きつけられる。

それらは全て、言語を用いない意思疎通、コミュニケーション手段として語りかけてくる。

デザインの領域においては、そのどちらもに触れる必要がある。
情報を視覚化する行為で在りながら、視覚化されたものが情報として認識されるというジレンマの中で、
それでも最終的には具象化することによって、デザインは他者や社会に存在を認識される。

ないものを在るものとして表現することが、在ることの意味を形成していく。
だから、つくり続けなければいけない。問い続けなければいけない。
どんな形でも、答え続けなければいけない。

というより、そっちの方が僕はワクワクする。

■「纏う」を問う

僕は服をつくる上で、それが服として機能せずともそこにある意味を持つということを基準にモノを製作したいと思っている。
それは大学での卒業設計から変わらずに在り続けている僕の思いであり、願いである。
「モノと人との間に金銭的な価値判断ではない関係性を構築していきたい」という思いは、
「自分基準ではない価値」が生じる瞬間に得られる豊かさに気づかせてくれる。

その瞬間に隣り合う、「ワクワク」があって。

服をつくることを始めて、家を出る数時間前に纏いたいと思う布を身体に巻き付けて、
纏うために必要な最小限の処理をして、その瞬間の踊る気持ちを具象化したものを纏うことが、
たまらなく楽しくて、ワクワクして、僕にとって自由な纏うモノの選択ができている状態であることを感じた。

それがスカートのようなモノであろうが、なんであろうが、
ワクワクしさえすれば、その感覚をモノにこめて、それを纏う。

その関係性を具象化する上で、衣服に空間を構成する要素としての機能を内包させることは、
一つの手段として可能性があるように感じている。

空間にあるものをパッと手にとって、纏ってみたら纏えた!!!
みたいに、モノに私を添わせてみることで見えてくるカタチ。

空間とファッション、纏うこと。

考えて、つくる。

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