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ホームレス、トーマス・ヴァンスの軌跡 a story of Thomas (7)

第七話

再起への道(4) ハーレムの空

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 ▲  トーマスのアパートの屋上に出て記念撮影をした。澄んだ水晶のように晴れ渡った師走の空の下に、イーストハーレムの街が広がっている。来年の春、ケンドラは3歳になる。 (1992年・12月) 

   それから1年半ほど、私はトーマスと会わなかった。特別な理由があった訳ではない。また、いつか、という思いで、旅の行方を自然のなりゆきに任せたかっただけかもしれない。ケンドラが戻ってきたことで完結したという気持ちもあった。それが、久しぶりに訪ねてみようかと思ったのは、クリスマス気分に浮かれるマンハッタンの中心街の耀きを見ているうちに、ふとあの二人のことが心配になったからかもしれない。

   地下鉄に乗りイーストハーレムに向かう。地上に出ると、ミッドタウンとは打って変わった静かでのんびりとした、しかしピキーンと張りつめた冬の空気があった。高層ビルのないこの地域の空の広がりは、地下鉄で20分とは思えないほどの、ふたつの世界の隔たりをいつも私に知らせてくれる。

   入口のブザーに「VANCE」の名前を見つけてほっとした。6階建ての最上階を目指して階段を上って行く。玄関のチャイムを鳴らす。ドアが開き、ケンドラがにぎやかに迎えてくれた。成長して、しっかりとした顔つきになっている。
   ケンドラは、私のカメラやペンや髪の毛、何にでも好奇心を示し触りたがった。リビングルームの、キッチン寄りのコーナーに、大きなクリスマスツリーが飾られていた。
   「初めてのツリーさ」と、トーマスが笑う。

   ふたりはニューヨーク州の生活保護で暮らしている。月218ドルの現金と、172ドル分の食料品クーポンを頼りに。
   「ショッピングなんて高嶺の花だよ」。「でも・・」と、急にトーマスが声をひそめた。「ケンドラへのプレゼントに、おもちゃの電話を奮発したんだ」。娘に気づかれまいと小声で話すトーマス。
   「この子にだけは辛い思いをさせたくないんだ。ケンドラが笑っていてくれさえすれば、それで満足なんだ」。

   ケンドラは麻薬中毒の母親から生まれたが、それにつきものの睡眠障害などもなくスクスクと育っているという。
   「夜中にパンパンと銃声が響いても、いったん眠ってしまったらお構いなしなんだ」。
   ケンドラの話になると、トーマスの目が細くなる。

   もうすぐケンドラは3歳になる。「そうしたら・・・」とトーマスは思っている。
   「ケンドラが自分で用を足せるようになったら、日中は市の託児施設にこの子を預けて、来年は、何とか仕事につきたい」。

   トーマスとケンドラは歩き始めた。
   ゆっくりと、でも着実に。

                         (最終回につづく)



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