「痛い」

例えば、
一緒にいる相手が「頭が痛い」と言った時。
誰もが「大丈夫?」と。
心配とその言葉を返すだろう

だが私の母親は「薬飲みなさい」と強めに言う。
心配している様には見えない

私は小さい頃から、ストレスが足にでる。
神経を使った日、嫌なことがあった日、緊張した日その日の夜には、必ず成長痛のような痛みを感じる

その痛みは幼少期からあった。
痛み止めの箱の模様を覚え、
「痛くなったらすぐにこれを飲むんだよ」と
教えられていたんだろう。

紺色で大きく「痛み」と書いている薬だったな。


「あしいたい」
「薬飲みなさい」

そんな会話を繰り返すとね、
「心配してほしい」という気持ちが大きくなる。
「心配してくれてないんだな」と少し寂しくもなる

だんだんと「痛い」という発言が
痛みの数に比べて少なくなった。
そうすると母親には
「最近足痛いの治ってきたんじゃない?」
と言われるようになっていた。


あなた、「薬飲みなさい」の一点張りでしょうよ。
痛いよ。痛みの数、小さい頃から変わってないよ。
何にも変わってないよ、私もあなたも。

と、思っていた、思春期。


でも大人になるとかなり考え方が変わった。
点と点が繋がる。

母親は、愛情に飢えている幼少期を過ごした。
話を聞く限り、壮絶な過去の持ち主だ。

きっと母親は「痛い」という相手がいなかったんだろうと思う。1人でなんとか耐えていたんだと思う。

「痛い」と感じている暇もないほどだったんだろうと思う。「痛い」のが当たり前だったんだろう。




私の中で「大丈夫?」は心がこもっていなくても
良いと思う言葉だ。
少しばかり心配した様には振舞って欲しいが。

こんな風に育ったもんで、「痛い」という言葉には
「大丈夫?」と返しておこう。という考えになってしまっている。きっといつも本心じゃない。はっきり言うと心配していない。

今まで自分の感じてきた「痛い」は本当に痛いだけじゃなく、「心配してほしい」の発言だったこともあったし、薬を飲んで数時間我慢すれば治るとわかっていたので大したことじゃないと思っていたから

でも。
母親に対する「大丈夫?」は他の人にかけている言葉とは違う言葉みたいだ。

「痛い」ときはそばに居て「大丈夫?」って。
「大丈夫」って言ってあげたい。
安心させてあげたい。居場所はここにあるんだよと


「大丈夫?」のゲシュタルト崩壊や。




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