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フレッシュ元就活生がみた、映画「何者」

本作は、映画館に観に行って以来5年ぶりくらいに観た。公開時は高校生。今ちょうど就活生の肩書を外そうとしているところだ。
自分の就職活動をひと通り終えるまでは観ないと心に決めていた。経験した立場からみたこの映画はとても興味深いものだった。
ネタバレずぶずぶなのでお知りおきを。

▶︎コロナ前の就活の世界と比較して

5年も経ち、コロナ禍で就活のカタチは変化。オンラインで済ませられるようになったことから、合同説明会が対面で開催される機会も少なくなったに違いない。私は一度も対面の合説には参加しなかった。あの空気感を体験しておけばよかったとこの映画を見て思った。おそらく、コロナがなく合説が盛んな時代に生きていたら、私は全く別の業界に就職することを決めていたと思う。それも全て巡り合わせなのだろうか。

また映画では就活対策本部として理香の家に集まっていたが、私は就活で複数人の友達と集まって情報交換などはしなかった。ましてや、誰かの内定祝いを自分の状況関係なくしたことなんてなかった。情報はLINEのオープンチャットをフル活用させ、そこから得た。おそらく昔よりもよりタイムリーなバリエーションのある情報を得られるようになったと思う。またオープンチャットは誰でも発言できることから、どれかしらの発言が嘘であるかもしれないという思考回路が働き、全てを鵜呑みにせずに眺めていられる。リアルな世界での人間関係に困ることはあまりない。

▶︎就活を経験したからこそ共感した部分

①「就活が得意だっただけ。内定もらったけど何にもなれた気がしない」
これは就活を終えた光太郎が思っていたことだ。
私は以前の記事でも記載の通り内々定をいくつかもらった。内々定を初めてもらったときはものすごく嬉しかった。でも何者かになれた気はしなかった。内々定の数が増えていくたびに、自分はどんどん何になりたいのか何をやりたいのかわからなくなっていった。
光太郎は憧れの子と再会するために出版業界に就職した。でもそれは彼の本意ではなく、彼なりの理由づけだったのではないかと思う。再会するまではその業界で生きていくモチベーションになるし、人に話しても軽く汲み取ってもらえる内容だ。
瑞月は彼に2回振られたと悲しんでいたが、3回目の告白を社会人5年目に設定すると成功すると読む。お互い相手がいなかった場合だし、瑞月は間違いなく広告の人間と付き合うことを選ぶ気がしてならないが。だって瑞月はすごい人に対して尊敬できる人だから。広告には瑞月の思うすごい人が溢れかえっているに違いない。

②「現実的な問題を考えて就職しなきゃならない」

これは瑞月が抱えていた悩みである。
彼女は家庭の事情で人生の方向性を決めた。彼女なりにはその決定のおかげもあってか内定をすぐもらえたし、未来に一安心していた。だが、"隆良の「100点だけを見てほしい」という夢のような考え"と"光太郎の出版業界を志望した夢のような理由"が、彼女の不安を溢れさせるトリガーとなった。彼女は、夢だけを考えて生きていられるという自分とは対極の状況が悲しかったのだろうと思う。

私自身、幸いにも家庭問題には悩まされていない。だけど、しあわせに恵まれている私でも現実問題を考えて就活をした。自分が女性だからだ。
こんなことを言ったら世間の皆から怒られてしまうかもしれない。作品の背景時代よりも時は進み、男女の格差もなくなってきた。性的分業の意識もなくなってきた。と世間では言われている。
しかし、現時点で私の男友達は結婚や子育てをあまり考えずに就活しているように見えた。やっぱり性的分業意識は抜けないよな、と思っていたし、誰よりもその意識に縛られていたのは私だった。
そこから考えが派生に派生を重ね、自分1人で生きていける力を身につけなくてはと考えるようになった。
結婚しても家事はやらないけど生活費は折半かもしれない、子どもを産んだ後に離婚をするかもしれない、だから年収は多めのところで。家族ができたときに引っ越しまくるのはみんなの負担になる、だから転勤の少ないところで。家族を支えるにはきっと家に居れる機会が多い方が良い、だからリモートワークのできるところで。
こんな風にして、現実的な問題を考えて選択肢を狭めていった。私が入社予定の会社は、それらの条件を全て満たしている。選択肢を狭めているときは悲しささえ感じることもあった、だけど今はとても満足している。
瑞月はもっと大きな問題を抱えているわけだけど、選んだ会社に満足して欲しいし、入社したら彼女なりに頑張るのだろう、私も頑張りたい。

▶︎似てるようで似てない2人

①ギンジと隆良
拓人はギンジと隆良を重ねていた。しかしそれを想像力がないと先輩のサワに指摘されてしまう。
私が思うにも、サワ先輩の指摘は正しい。
ギンジと拓人は自分の信念を貫き、インプットした情報はそのままアウトプットの材料に使っている。一方で、隆良は自分の考えをそのときそのときで持ちながらも、人の考えを取り入れる力を持つ。隆良はインプットした情報を自分の中で再構築していて、アウトプットの原材料に使っている。
ギンジと隆良はお互いに新しい情報を得てアウトプットができる喜びが共通してあったはずである。しかし、ギンジは情報を得ても自分を変えない。隆良はお互いに刺激を与え合い変化していくことを望んでいたと感じてしまった。作品の中では、一つの作品に重ねる時間の価値観の違いで一緒に仕事をするのを辞めていたと明かされている。ギンジは結果ベース、隆良は経過ベースの人間だったのだろう。
拓人がギンジと隆良を重ねたのは、ギンジがたびたび公開するブログが経過の内容ばかりだったのに嫌気がさしていたから、その経過好きなギンジというイメージが拓人の中で隆良と重なったのではないかと私は考察してみた。
ただこの話は難しい。自分でも的外れなことを言っている気がしてならない。時間があるときにまた考えてみることにする。

②拓人と理香
拓人と理香はお互いに一部の思考回路が似ていた。自己アピールの激しい理香と分析に酔う拓人、2人は自分を信じる力が強い。
お互い自分を信じる力が強いことに拓人が気づき、それにショックを受け、そこから話をずらすようにして上手く切り抜ける。理香から「ギンジと隆良」と似ていると指摘を受けたときも、拓人の心情は顕著だった。
ただ、理香も理香で拓人のNANIMONOアカウントにいつの間にか気づいており、目の前に拓人が存在することに半ば嫌気をさしている。ただ、拓人ほど嫌に思っていないように感じられた。理香は拓人の気づいていない、お互い自信のある自分に酔っていることにも気づいていた。この点において理香の方が一方先であった。もしかしたら、この余裕が自己アピールの全開さを助長したのかもしれない。

私も就活中にグループディスカッションを何度か経験した。ある一社のグルディスで、リカのように自分の経歴をアピールしている人がいた。口を開けば、私は「〇〇で〜人を担当していて、〇〇に気づけました」と述べる。このような典型的な意識高い系(とか主観で言ってごめんなさい)に出会ったのは後にも先にも就活でこの一回であったから私はそのときは感動してしまった。こんなにも見事に話し合いの中で自分だけのアピールをする方がいたことに。しかしそのグループディスカッションはすごくまとまりのある話し合いに仕上がった。おそらくファシリテーターはじめとする他の方々がすごく協調性のある方だったのだろう。まとまりを持って終わったことにも感動したことは忘れられない。

▶︎映画で1番好きなシーン。

原作も過去に読んだことがあり、家にあったので今回映画を鑑賞後、再読した。就活が終わったばかりで随分と映画に引き込まれたこともあって、小説も数時間で読み切ってしまった。当たり前ではあるが、映画では省かれていた背景が多々あった。(映画を観た方には原作も是非読んでいただきたいと思う。)
しかし、映画のいいところは小説をまんま映画に代えただけではないところだ。

"拓人が舞台の上で自分のツイートを紹介し、観客から称賛される中で真っ直ぐ見つめる瑞月に気がつき、我に帰るシーン"が映画の中で私の1番好きなシーンだ。
公開当時からこのシーンがずっと脳裏に焼き付いていて、「映画『何者』」と言われればこのシーンを思い浮かべてきた。
このシーンは拓人の持つNANIMONOアカウントから見た世界を、舞台からみた世界と重ね合わせていると私は想像した。称賛している客は、拓人の頭の中に常にいる自分のツイートの共感者たち。拓人が就活を進めるうちに客を増やしていたに違いない。
映画の中で、"拓人が理香と隆良の関係性の違和感をTwitterで発見し、瑞月と光太郎に対して共感を求めるシーン"があった。このとき瑞月と光太郎は愛想笑いで交わした。この瞬間、拓人はもっとNANIMONOアカウントに住み着き、NANIMONOアカウントの観客を信じることでしか自分を保っていられなかったのかもしれない。
それをずっと続けてきたが、理香のツッコミによりその縄張りが解け始めた。それによりできた僅かな隙間から拓人が想いを寄せる瑞月が顔を出す。彼は瑞月に対しては素直でありたかった。今まで素直でいれたし、拓人の素直に対して"本物の「すごい」という眼差し"をくれるからである。(拓人との瑞月に対する想いは小説でより書かれている)
常に自分が正解であるかのように他者に見せたい=舞台の上で演じる、好きな人の前では素直でありたい=舞台から逃げる、という比喩表現は見事であると感じた。

▶︎小説よりも映画の方が未来に希望のある終わり方に。

映画では、初めて素直に戦ってみたところ、指定時間内に伝えきれなかったが、これから拓人が生まれ変わる希望の光がしっかりと差し込んでいる。
小説では、初めて素直に戦ってみたところ、面接官を納得させる回答ができなかったが、根拠のない微かな光が見え始めているところで終わっている。
私は映画の振り切った明るい終わり方が好きである。就活はたくさん嫌なことに出会うし、気が滅入りそうになるけど、何者になれなくても自分という人間としての一歩前進くらいすることもあるし、楽しいことだってある。映画の観客にそう言ったプラスのイメージを少しでも抱かせるはっきりとした演出が私は好きだ。

ここまで色々語ってきたが、小説には映画で取り上げきらなかった深い部分がたくさん書かれていてもっと登場人物が好きになるし、映画には登場人物の心情表現が大胆に表現されていてもっと登場人が好きになる。

私は『何者』という作品が好きなのかもしれない。

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