見出し画像

新宿で『丸の内サディスティック』 #夜更けのおつまみ

だめだ。今週は何もうまくいかなかった。社内研修でひとりだけ課題が終わらなかった。なのに、課題を持ち帰って進めることは禁止されている。にっちもさっちもいかない状況に、新卒1年目の私は参っていた。

平日フルタイムで働く人にとって金曜日の夜は特別だ。どんな一週間もこれで仕切り直しになり、次の日を気にせず羽を伸ばせる。しかも明日から三連休。だというのに、なんだかすっきりしない。

鉛色のため息をつきながら会社を出て、自宅と反対方向の電車に乗った。こんなくさくさした日にはとっておきの場所がある。新宿二丁目、雑然とした路地の一角。狭く急な階段を登った2階にあるそのバーには、ピアノ、ドラム、ギター、カホンなどが備えられている。私のように噂を聞きつけて足を運ぶ音楽好きは多い。

扉を開け、マスターに聞かれることは決まっている。

「いらっしゃい。初めて来たの?」

「何回同じことを聞かれるんだろう」と内心思う。曰く、「週3で来てくれないと顔を忘れちゃう」のだそうだ。まあ、私も面倒だから聞かれる度にいつも「3度目くらいです」と答えているし、もしかしたらマスターも本当は覚えているのに、からかって聞いているのかもしれない。

フードメニューもあるが、この店のとっておきはその場に居合わせたお客さんたちで始まるセッションだ。今日はピアノとドラムで、チック・コリアの「スペイン」が流れている。音楽は好きでも爆音は苦手なので、演奏スペースから少し離れたカウンターで梅酒を1杯頼み、ミックスナッツをつまみながらマスターに愚痴る。

「この春社会人になったんですけど、仕事がうまくいかなくて。全然自立できてないなあってへこむんですよね」

まったくといって「スペイン」に似合う話題ではないが、どうしたら自立した社会人になれるか以外、私の関心事はなかった。遠くを眺める私を見て、なにをいまさら、というきょとんとした顔で、マスターは言う。

「会社員の『自立』って本当の自立じゃないだろ。今まで家族に扶養されていたのが会社に扶養されるようになったってだけだぜ」

確かになあ。店を切り盛りしている人に言われるとぐうの音も出ない。常連さんとおぼしき中年男性が、隣で、訳知り顔でうなずく。ひよっこがこんなこと言ってすみません。出された梅酒を一口飲む。

昔は、成人しても社会人になっても、自分の中身は小学生の頃からあんまり変わっていない、と言う大人が多いことを疑問に思っていた。でも今なら、それが本心の言葉なのだと分かる。私も自分のことは「大人ではない」と断言できる。「自立とは自分の責任において自分を育てられることだ」と誰かが言っていたが、私はいつ自立した大人になれるんだろう。

ちびちびしつつ考え事に耽っていると、ピアノ担当のお客さんから「ねえー、お姉さんは何か楽器できる?」と声をかけられた。突然の出来事に「歌なら歌えるけど……」と戸惑いながら答えると、「『丸の内サディスティック』って歌は知ってる? 知ってるんだ。じゃあ合わせようよ」とセッションに誘われる。というか、そう言うか言わないかのうちに、ピアノとドラムは前奏を弾き始めていた。そんなことされたら合わせるしかないじゃんと思う一方で、ちょっとわくわくしながらマイクを握る。

歌っている間は情けない社会人生活も荒廃した一人暮らしの部屋も忘れられる。見知らぬ陽気な音楽好きと歌。週末夜の酒のつまみにはぴったりだ。歌い終わった後、参加者たちから「ふー!」とおだてられると、恥ずかしさと楽しさとで熱くなる。

しばらくして、大学でバンドサークルに所属するという女子大生が来店した。マイクを彼女に譲り、リュックからお財布を取り出そうとするも、マスターに「まだ帰んないよね?」と煽られる。仕方なく「じゃあもう1杯ください」と頼むと、セッションは東京事変の『透明人間』に変わっていた。

その後もパッヘルベルの『カノン』、アニソンの『創聖のアクエリオン』と、ごった煮で進む。そして今度は女子大生の『丸の内サディスティック』が始まった。バンドではボーカル担当という彼女。ちょっと甘い声が絶妙にはまる。

「報酬は入社後平行線で 東京は愛せど何にもない」

歌詞が沁みる。この土日、どうせ課題を進められないなら、気にするだけ損だ。今夜はここで遊んで始発で帰ろう。店は今日も、酒と音楽で更けていく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?