子どもの不登校を受け入れられないつらさ
子どもが「学校に行きたくない」と言ったときに「一度休ませてそのまま不登校になったらどうしよう」と不安になり、まず休ませる決断ができずに悩む方も少なくないかもしれません。
また実際に不登校になってからも「本当は子どもに学校に行ってほしい(不登校になってほしくない)」という気持ちがあって家にいる子どもの姿を見ながら、不安や心配を抱いている方もいるかもしれません。
子どもが不登校になったことを受け入れるまでの過程というのはそれぞれだと思います。
経験者の方々のツイートでは「子どもが学校に行かなくていい」と心から思えるようになるまでに数年かかったという方もいました。
でも受け入れることが早いからいいとか、遅いから悪いとか評価をすることではないと思います。
それぞれ事情も環境も違います。受け入れるまでに時間がかかったとしても、親として「子どもにとってこの選択でいいのだろうか」と向き合った時間だからこその葛藤ですし、葛藤の時間が短かったからすごいとか逆に親として無責任なわけでももちろんないと思います。
自分が苦しい最中はこの記事も含めいろんな情報にふれることでより自分を責めたり傷ついたりしてしまうこともあります。私もたくさんの言葉が自分に刺さってくるような感覚になり寝込んでしまった時期があります。その時はしばらくさまざまな情報から離れ回復を待ちました。脅しではないのですが(^^;)、これからの内容が自分には合わない時は流せるくらいの時に読まれる方がいいかと思います。
ということをご了承してもらってから書いていきたいと思います。
今回は「子どもが不登校になった時にこんなことを葛藤するかな」ということを少しあげていってみたいなと思います。
主に思い浮かんだのが、
1,「普通」を望む気持ち
2,不登校に対して自分の持っていたイメージ
3,不登校になった原因探し
4,自分の今までの子育てを責めてしまう
1,「普通」を望む気持ち
自分の子どもに「本当は学校に行ってほしい」と心配する気持ち。
この心配の根底には私は親の心にある「普通」という価値観が大きく影響しているように思っています。
今現在の日本では「学校に行かない生き方」を選ぶことはまだマイノリティの生き方です。レールから外れると感じたりいろいろな色眼鏡で見られることを感じるかもしれません。
子どもが学校に行っていたらなんとなく先の人生も見通しが立っているように感じます。何年後には卒業してみたいなビジョンが見えるかもしれません。
でも「普通」って考えてみるとあいまいで、一致はしてないんですよね。なんとなく大多数の人が選ぶものに「普通」を感じるのかもしれない。
じゃあなんで「普通」を望むのか。ここが子どもに学校に行ってほしい(不登校になってほしくない)って思う気持ちとつながってるんじゃないかなって思いました。
もし今お子さんのことで悩まれていて子どもに普通であってほしいと思っているのなら、どうして普通が良い(幸せ)と思うのか、多分自分の中で何かメリットと感じている部分があると思うので考えてみませんか?
私の場合は、「普通を望む気持ち」=「安心したい気持ち」だったかなと思いました。「安心したい気持ち」だって悪いことではないですよね。
でも普通であれば安心と感じられてもそれは「安心な感じ」であって確実なものではなくて。 本当は学校に行っていても行っていなくてもどんな人生にしていくのかはその人次第。
ただ学校という枠がないと学校によって用意されたものがなくなります。
用意されたものを活用していくことは効率の良さがあると思います。一方何を選んでいくかから決めていくことはより「自分に合った」学びを作っていけます。
ホームスクールって「自分ってどんな人間なんだろう」という自分への問いがより大事になってくる生き方かもしれません。
2,不登校に対して自分の持っていたイメージ
不登校の子たちに知らず知らず自分が持っていたイメージが抵抗を生むこともあると思います。
これはたくさんの情報を得てみるとイメージが変わってくると思います。自分が知らないだけで不登校の経験があってもその後の人生を幸せに過ごしている当事者はいます。主婦されていたり、仕事をされていたりみなさんさまざまです。元当事者として情報を発信されている方もいますし、本を出されている方もいます。
このマガジンでも現在進行形で自分らしく過ごしている様子を皆さん発信されてますのでのぞいてみてくださいね(*^_^*)
私はたまたま自分の子どもが不登校になる何年も前に不登校の子たちと関わったことがありました。みんな思いっきり笑ったり怒ったりもするし、エネルギッシュだったことが私には意外でした。
心に傷を負った子たちという勝手なイメージが自分の中にあったんだと思います。
あの時出会った不登校の子たちはみんな魅力的で私の中の不登校のイメージを良い意味で変えてくれました。
そしてその時の不登校の子たちの多くに感じたことは「感受性の強さ」でした。
この時娘は年中くらいでしたが、私は娘がこの先いつか不登校になるかもしれないと思うようになっていました。理由の1つはこの感受性の強さを娘にも感じたからです。
この経験がなかったら娘が学校行きたくないと言い出してから休む決断をするまでに私はもっと時間がかかったかもしれません。
3,不登校になった原因探し
どうしてこうなってしまったのか。考えてしまうことも多いと思います。どうして不登校になったか原因を明らかにしてそれをなんらか解決すれば前に進める気がするかもしれません。
でも不登校当事者自身も大人になってからも原因を明らかにできないことも多いそうです。
我が子がつらそうにしていたりする姿を見ると、現状から脱したいと思い、原因探しの過程をたどりたくなる気持ちとてもわかります。でも「今自分の子どもはどんな過ごし方したら安心するか」が大事だと思います。
4,自分の今までの子育てを責めてしまう
親御さん達の葛藤は「自分の中の価値観(当たり前と思っていたこと)(正しいと思っていたこと)」を一つ一つ手放す作業であったり、それは時には今までの自分の生き方の根底を否定することにもつながったりでつらさや痛みを伴うこともあります。
自分の今までの子育てを責めたり、自分自身を責めることも多いかもしれません。
私も不登校になって数ヶ月経ってからすごく落ち込んだ時期がありました。GWに風邪を引きそのまま心もダウン。寝込んでしまいました。ちょうど不登校Youtuberの子の話題が盛んでした。さまざまな意見に今までの自分なら流せていたような言葉も急に全部自分に刺さってくるような感覚になりました。
オセロがクルッとひっくり返っていくかのように、自分自身や今までの育て方の否定が急速に連鎖して、こんな自分がこれからも娘に関わることが娘のためにならないんじゃないかと思い詰めてしまいました。つらい時間でした。
葛藤や悩みは自然なことです。
苦しむことは悪いことではないです。
自分とそしてお子さんと向き合ってる証です。
私もこのマガジンに参加させてもらってから知った「デ・スクーリング」という言葉があります。
「学校に行かなければならないのにできていない事に抱く罪悪感」これを取り除くプロセスのことをデスクーリングと言うそうです。
今日記事にした「子どもの不登校を受け入れるまでの過程」、4つの葛藤はこのデスクーリングにも当てはまるのかなと思いました。
このマガジンにもデスクーリングについての記事もいくつかありますのでぜひ読まれてみて下さい(^^)
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