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北斗に生きる。-第7話-

六歳の秋に完成して引越した家は、窓の入った明るい部屋であった。
デコボコのない板張りの床、家の中にはなんにも無いガランとした装いだった。

翌年、四月小学校に入学した。
現在のようにピカピカの一年生ではない。
母方のばあ様からはかすりの着物と羽織が送られてきたので、それを着て学校に行った。
六年生の次兄に連れられて、下駄をはいての通学だった。上履もなく足袋でペタペタ歩いていた。

着物を着て学校に行ったが、体を動かすと脇腹がチクリチクリと痛い。ちょっと動いても痛い。家に帰って小母さん(おばさん。よその年配の女性を親しんでいう言葉)に
「この着物痛いから嫌だ」という。
小母さんは、「わざわざ山形から送ってくれた新品に文句をいうな」いわれる。
何度も何度も苦情をいったので「ドレ」といって調べてくれた。針のようなもの入っているのが分かった。腰揚げの所に頭の平べったい待針である。外から取り出すことが出来ず、ばらして出してくれた。四月二十九日、天長節にこれを着てけといわれ、以後、着たことはなかった。

父は従姉妹一家の住む家を造り始めていた。
毎日、毎日、コツコツと一人で作っていた。
二年生の秋、家も出来上がり、一家は引越して行った。夫婦と四年生を頭に五人の子供がいた。家の大きさはオレの家より大分小さく十八坪である。一五○メートルしかはなれていないので、毎日兄弟のように遊んだ。一家が引越してから、オレの家は、昨年、卒業した長兄、次兄、父と男ばかり四人の生活である。
井戸から釣瓶で水をくみ、茶わんと三平皿と小皿ぐらい洗うのが、オレの仕事である。
飯を炊くのは三人が順番で朝早く起きて、炊いたものだ。薪が濡れていると火力が上がらない。めっこ飯になり、中々炊き上がらない。明日はオレの番である。イタヤの乾いた薪を用意しておく。イタヤ、ナラの乾いた木は鉄をも溶かす火力がある。父が時々、その木の火でトビ、ツルハシなどの道具の先をトントン叩いて、直していた。

炊事のため、薪にガンビ(白樺のこと)の皮で火をつけた。
火力が強いのでストーブは真赤になった。煮立ってきたあとは、水がなくなれば上にあげてむすばかりである。火力が強いため下が焦げ、まだ水気があるのに、煙が上がりはじめた。熱くて手もつけられない。兄を起こしてやっと下ろしてもらう。飯ではなくこげばかりだ。全然食べられなかった。以来、飯を炊くのは火加減が一番難しいものと分かった。兄達には怒られるし、朝飯はない。何を食べたかさだかではない。
「始めチョロチョロ、中パッパ、赤子ないてもフタ取るな」
今考えると火加減のことをいっていたのである。

家の一里半(一里は約3.927キロ)くらい下の方に「大豊」という街がある。商店が四軒くらいある。郵便局、鍛冶屋、木工場がある。豆腐屋では六十近い親父が一人で作って売っていた。店に座っていて客を待っていても売れない。
豆腐、油揚げ、こんにゃくをガンガン(18リットル(1斗)缶のような比較的大きな缶のこと)に入れ、背負って部落中を売り歩いていた。油揚げ一枚買うと新聞に包んでくれた。三角なため中々うまく包めない。街に居ると鍋か、ざるに入れてやるので難しいのだ。
「小父さん(おじさん)、今度、油揚げ四角に作ったら」という。

十日くらいしてから、またやって来た。
今度は「坊にいわれたようにしたら、すたれも出ないし、包みやすいし、大変塩梅がいい」
一枚買ったら、一枚お負けをしてくれた。
どうして油揚げは三角だったのか不思議だ。
今の油揚げは四角だが、いつ頃から四角になったか、分からない。
夕食のおみおつけに薯(いも)と揚げに、キャベツをきざみ、うぐいの焼干と、味噌を入れると出来上がりである。
「今日のお汁は大変うまい」と兄がいう。
その通りだ。お負けの揚げがたくさん入ってるからだ。

八月の下旬、雨の中、学校に向かう。
雨ガッパも無く、ずぶ濡れ状態である。教室にはまだストーブをたいていない時季だ。着干しするしかなかった。前々から風邪気味だったので、頭がくらくらする。机に頭をつけて眠った。変だと思ったか、先生が頭に手を当て、体温計で熱を計った。三○○メートルぐらい離れた家に、同級生二人に「連れて行ってやれ」といわれた。送られてふらふらしながら、家に帰ったが、人気もない。火の気もない。
布団を押入れから出す気力もなく、友達に出してもらい丸くなって入っていた。

ぞくぞくする寒さの中で気がついた。
小母さん達が来て、火を焚いて部屋を温めてくれていた。富山の薬屋の箱から風邪薬を出して、頭に濡れタオルを上げてくれたのを覚えている。帰り際に
「こんな時、母ちゃんがおったならなぁ」といっていた。一人ぼっちでいる寂しさと、動くことも出来ない苦しさだ。
あの一言「母ちゃんがおったら」母とはそういう人か。途端に涙がじわじわと出て来た。
兄達が畑から帰ってきた。白い米でお粥を作ってくれたが、その夜は何も食べることが出来なかった。二、三日学校を休んだ。先生が「良くなったのか、よかった。あの時は熱が四十度もあったのだ」という。

(つづく)

〈南樺太の地図〉

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読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑