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北斗に生きる。-第8話-


十二月二十三日、今の天皇がお生まれになったと、先生から聞かされた。
二十五日の二学期も終わる二、三日前だった。雪の校舎前に集合した。校長先生が皇太子様がお生まれになったと、長々お話をされた。
これはそのお祝いに下された有難いお菓子であると、紅白の饅頭を渡された。十二月末の樺太は日中でも零下二十度くらいである。本当はふかふかの赤子のホッペのような柔らかさと思ったが、運んでくるまでに凍ってしまい、頭にぶっつけると痛くなる固さであった。食べることの出来ないお菓子を大事に持ち帰った。
何とかして食べたいとストーブに上げて待ったが、中々柔らかくならない。そのうち下から煙が出てくる。何ともいえない香りである。一口パクリと口に入れる。うまかったこと。ほっぺが落ちるとはこのことだろう。
よし、こんなうまい物を下さる天皇のためだら、どんな辛いことでもしようなんて考えた。

翌年の七月頃だ。大正天皇の弟君の梨本宮様が樺太に来られた時である。大豊という街をお通りになるので、近くの学校の生徒は全員お迎えに集合することになる。学校からは八キロであったが、遠い学校は十四キロくらいあった。
約三百人くらい集合した。お通りになる一時間前に集合した。リハーサルを何回もして、約百メートル前まで黒い車が来た。
「最敬礼」の号令で体を四十五度にして頭を下げる。約百メートル過ぎてから「直れ」でようやく車を見ることが出来た。当然、お顔など見えたわけではない。去年の皇太子様のお生まれの時の饅頭を重ねあわせて、何とも変な気持ちであった。

オレの家には馬が一頭いた。貸付馬といって、仔馬が生まれたら返す仕組になっていた。その仔馬はまた馬のいない農家に貸し出されるのだ。家の馬は黒毛の馬である。何故か黒毛の馬はアオという。体格は大きい馬ではないが、足はみじかくて太い、上体はガッチリしている。部落では二番位の力持ちだった。名前は呂豊(ろほう)号である。オレより三歳くらい若かった。畠耕しも一段落した六月中旬からは、十メートルくらいのロープで草地につなぐ。
午後には、草の生えている所につなぎ替えをする。好天気の時は昼に川まで水を飲ませに連れて行く。遠くから「アオ」と大声で呼ぶと「ヒヒーン」と返事をする。クツワもかけず裸馬に乗る。川に向かい一目散に走る。
「どうどう」というと走るのをやめて歩き出す。本当にアオはいうことが分かるようになる。

川に着くと、七、八十センチくらいの深さの所に入り、たらふく水を飲む。飲み終えると前足で水が背中にかかるほど前かきをする。乗っているオレは頭迄ずぶ濡れになる。
岡に上がり柔らかい草を十分ほど食べらせて「帰るぞ」と首を手でたたく。食べるのを止めて、元つながれていた場所に帰ってくる。オレは十歳だったが、アオは七歳の立派な大人馬である。

うちの親父は人間の住む家と馬小屋は、棟つづきにしていた。夜、小屋に入れると夕食を食わせるほど、大事にしていたものだ。夕食は毎日学校から帰ってから畠のふちから刈ってくるのが、日課とされていた。しかし、親父はいざ仕事となると、道具としか考えていなかった。
たまたま逃げたことがあった。いくら走っても追いつかない。
「お前、行ってつかまえてこい」といわれた。
ゆっくりと後から歩いて行く。アオも安心したのか止まって、首に縄をかけさせてくれる。馬小屋に連れて帰る。燕麦を五合ほどやる。馬もそれを知っていた。親父には内緒の話である。だから友達みたいな仲だった。


親父は毎晩、仕事から上がると、焼酎を一ぱい飲むのを楽しみにしていた。四年生の秋、隣の親父が飲みにきた。話しに花が咲き残り少なくなる。「酒を買ってこい」といわれ店に出向く。店は学校の近くに一軒あった。一升瓶二本を風呂敷きで背負って行ったものだ。約二キロくらいであったが、近くにいる友達などは父は酒を飲まないので、酒買いに行ったことはないという。
二升の焼酎を背負って、途中の坂道にかかった時だ。七センチほどの丸いものを石蹴りするように蹴った。チャリン、チャリンとお金の音がした。手にしてみると皮の財布である。チャックをあけて中身を出してみる。今まで手にしたことのない十円札が一枚と、五円一枚、五十銭、十銭、五銭、他に書付のような物も入っていた。余り大金なので家に帰り親父に渡す。
親父は「明日交番に届けてくる」もし、落し主が出なかったら、お前がもらえるといって取り上げられた。店の婆さんは「お前の親父は金持だなぁ」という。
現金で酒を買って皆に飲ませていたとの話は、後で聞かされた。結局、あの金は親父の飲み代となったのである。当時の十七円といえば大金である。米一俵六十キロが十七、八円であったと思う。

五年の時、長兄が嫁さんを貰った。
これでやっとオレも飯炊きから解放された。
夏は畠の草取り、秋は刈り入れ、薯(いも)掘りである。学校は常に休まされ畠仕事をさせられた。農繁期になると上級生は三分の一は学校を休み、家業を手伝ったのである。高等小学校に行けたのは、小学校卒業生の三分の一もいなかった。親父に頼んで夏は仕事を手伝う事を約束し、高等科に行くことが出来た。

一年生の夏、全島の生徒に道路愛護習慣にちなんだ標語の募集があった。何も深く考えることもなく「山は愛林、道路は愛護、みんなで守ろうおらが村」が二位に選ばれた。賞金十円とノート五冊、鉛筆二ダースである。
朝礼の折、校長先生から頂いた。賞金は、月五十銭の月謝の払いに六円払えと親父にいわれた。残りは何に費ったろうか。
鉛筆は半分以上友達に配った。良いことをした気がした。標語は村中の店先や街角などに、張り出され、嬉しかった。ある程度、有名になったためか、友達に勉強を教えてくれといわれた。感じたことを素直に書いただけである。全く学力とは関係ない。

十五年三月、高等科も卒業した。いよいよ農家の働き手となる。やっと身辺に自転車を見ることが出来るようになる。自転車が欲しくて、親父に頼んで買ってもらう。もっぱら用達は昼休みに走った。片道一里は普通である。
その頃、新車で二十五円だったが、自転車のある家は三軒に一軒しかなかった。凸凹の砂利道ばかりだが、楽しくて用達に走ったものだ。親父もそれを見て練習を始めた。四十五歳の時である。一週間以上かかってよろよろ乗れるようになった。親父は用達を自分で行くようになった。用を終わらせ、いつもの店で先ず一杯である。二杯が三杯になる。いざ帰ろうと乗ってみたら真っすぐ走ってくれない。乗ってもすぐ落ちてしまう。諦めて店においてくる。朝食の時に分かる。時々、馬で用達をする。二、三杯ひっかけても馬は乗れる。馬は迷わず家に帰ってくれた。自転車というやつは不便な乗物だと思ったらしい。それでも懲りず、乗り捨ててきたことがあった。

小学校を卒業すると、男子も女子も青年学校に行くことが、義務づけられていた。
夕方、四時から七時まで学校に集まり、軍事訓練をする。雨降りは早めに行き、学科を教わる。冬は生徒のいなくなった教室が道場になる。銃剣術の稽古である。第一線から除隊した元伍長に、毎日しごかれたものだ。夏は草中やぶの中を蚊に刺されながら、じっと潜んだり、走ったりである。まだ一人前になっていない少年達は、何の文句も言わず訓練に明け暮れた。

五年生の時、海軍の軍艦全部が樺太の大泊港にきたことがある。勇姿を一目でも見たいと親父に頼み込んだ。費用は二泊三日で五円である。五円を出してくれず、中々「ウン」といってくれない。
「今年の春、燕麦を貸してある藤木さんに行って、一俵俵だけ貰ってきたら行ってもいい」借金の取り立てである。勇気を出して頼んでみた。「解った、二日後、きてくれ」一俵七円五十銭をもらい飛び上がらんばかり喜んで帰った。
初めて見る戦艦の大きさ、すばらしさに驚くばかりだった。見学させて貰ったのは戦艦山城であった。寝室も見せてもらう。全員ハンモックに入って寝る。海軍さんは白いセーラー服を着て、何となくか弱く見えたものだ。が、やはり立派な軍人である。

(つづく)
※次回は青少年時代の続きから。


**〈南樺太の地図〉 **

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いつも読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑