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北斗に生きる。

昼すぎ、正男君がとんできた。
「とうとう日本は負けたとよ。天皇陛下がラジオでいってた」と告げる。とたん五体がくずれる思いだった。
八月十五日、何かをする気力もない。食欲もない。兵舎に帰る。夕食後、外に出る。
昨日まで暗かった街は電気がつき、明るい街に見えた。

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終戦から73年目の夏。
祖父の手記をあらためて読み返した。
幼少期の記録から、軍に召集された青年期、
そして終戦の日。
73年前のあの日、祖父は宮崎でその日を迎えた。手記はそこで終わっている。とても清々しい描写で。祖父が生きて帰ってきてくれたから、いまの私がある。感謝しかない。

平成最後の夏。
わたしには何ができるだろう、と考えた時、ふと祖父の声を届けてみようと思った。
三月に私は仕事で広島を訪れた。まるで、そこからすでに見えない糸で繋がっていて、自分がそうすることはとても自然のことのように感じた。

当時の人たちの暮らし、感情。
そして、日本が突き進んでいった道。
祖父が、体験したこと、感じたことを、孫の私から伝えたいと思う。

数年前に亡くなった祖父もきっと喜んでくれると思う。

小俣 緑

※このnoteは2018年の夏に載録したものです。

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※誤字等も含め、一字一句、祖父の手記をそのまま掲載します。

※手記は、樺太で過ごした頃の「幼少期編」、入隊し全国の基地を転々とする「青少年期編 」の二部構成になっていますが、終戦記念日直後なので「青少年期編」から掲載します。

※祖父の生い立ち: 祖父は大正十四年一月三日、サハリン(旧樺太)で農家の三男として生まれる。樺太に渡る前は、標茶町阿歴内に住んでいたが、当時は樺太への移入希望者を募っており、自分の土地を持ちたいと家族で樺太に渡ったそう。母親はその後、祖父が二歳の頃に他界。大変苦労をしたようだ。


北斗に生きる。        村山 茂勝

当時娯楽らしいものは何もない。
テレビどころかラジオもない。当然、電気もない。年に一、二度小学校にくる映画が何よりの楽しみであった。軍国ものが主であり、股旅母子ものくらいである。

十日も二十日も前から心待ちにしていたものだ。十一月になると農家の仕事も終わり、農閑期になる。なにがしかの収入を得るため、街の工場に働きに出て行く若者が少なからずいた。また、親父達と出稼ぎにでたものもいる。

女の子は街に出て働く。一年も過ぎるとちょっと色ぽくなって、街で流行ってる洋服を身につけ青年学校にきた。
家にいる弟妹がかわいそうで帰ってきたという。本当は街の生活、仕事になじめなかったのだろう。
友達の女の子達が、「東京の話をして」という。口下手な娘もポツリ、ポツリ話をする。
想像もつかない都会である。まるで他国の話のように感じできいたものだ。
「こんな歌も流行っていたよ」と皆の前で歌ってくれた。「めんこい仔馬」である。
「濡れた仔馬のたてがみを…」歌詞を見て二、三回ついて歌ってすぐ覚える。「誰か故郷を思わざる」「戦友」「ここはお国の何百里」いい歌である。
悲哀のこもったメロデーの為、昭和十八年頃、歌ってはならぬとの軍から命令が出たものだ。でも脳裏から消えることはなかった。

軍国主義の明け暮れの毎日である。
でもこれも宿命であろう。国のためだと従うしかなかった。やがて飛行機を作るアルミニュムが日本には産地がない為か、学童の必要な弁当箱の果まで供出するようにいわれた。
鉄砲を造るためであろう、毎日ストーブの上にのっている鉄瓶まで供出せよとの知らせがあった。はるばる樺太まで宝物のように持ってきて、毎日磨いてピカピカに光らせていた婆さまの宝物まで出せといわれた。
婆さまは泣きながら押し入れにかくしたのを見たことがある。次の日から婆さまはヤカンの湯でお茶を入れていたが、これでは人様に出せるお茶ではないと言っていた。オレにはお茶の味など全然わからないが、お茶通には耐えられない苦しみだったことだろう。

(つづく)