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北斗に生きる。-第6話-

七月七日の七夕である。
晴着ではないが子供の浴衣を着て、七時頃、隣近所の小学生にさそわれる。提灯を持って
「ローソク出せ、出せよ……」と家々を回る。
十人ぐらいだったろう。町内の商店は、二、三軒だった。各家では子供達が来るというので、ローソク一本ずつと飴と菓子を、一人一人に渡してくれる。借家の人達でも子供の声をきき、玄関にローソクを持って待っていた。紙袋を各自が持って、その中に入れてもらう。

ローソクは手で握っていた。夏のさかりの暑さと手の温もりで、十本くらいのローソクがひと固まりになった。使い用のない団子になってしまったが、捨てることもせず持ち帰った。
一番驚いたのは大家さんの所に行った時だ。五銭のキャラメル一箱とローソクを貰い、大事に持って帰った。家には一歳くらいのキミちゃんがいたので、食べさせたい一心もあったのかも知れない。

おやつといえば、三日か五日に一度貰うビスケット三枚か、アメ二個くらいが、最高のおやつだった。居候にとってオヤツどころではない生活の苦しさがあったろう。夕方になるとよく食物を買いに廉売に家人について行った。ついて行ってもおやつなどは買ってもらえぬ。物ほしさではなくついて行ったものだ。帰りは何か軽い物を持って手伝う。家に帰るとビスケット五コくらい貰うことがあったので、度々ついて行った。

廉売の入口には、今でいう自動販売機があった。一銭でアメ二個とか、コンペイトウなどが出てくるようになっていた。でも、その一銭を手に持ったことがなかった。
ある時、鉄工場か、板金屋の鉄屑の中をかきまわしていた。いろんな形のものを集めていたら、ちょうど、一銭銅貨くらいのが何枚もあった。そうだ。これを自動販売機に入れたら飴が出てくるのではないか。正ちゃんと二人、廉売に行って入れてみようということになった。一人では勇気がなく出来ないと思ったからである。

一枚目は駄目。二枚目も駄目。三枚目を入れたらコンペイトウがポトリと出てきた。
「ヤッタ」二人で何も言わずに人目のない処へ走った。二人で分けて口に入れて、はじめてニッコリ顔を見合わせた。ガチっと噛めばすぐなくなるので、コロコロと口の中でとかして飲み込むようにした。明日はまた残りの鉄屑のお金で「キャラメル」にしようなんていって帰った。

次の日は飴が出てくることを信じて行った。
何枚入れても駄目だ。最後に残りを二枚一緒に入れた。「ポトン」と音がして本当に飴二個が出て来た。それから数日後に鉄工場に行ってみた。鉄屑置場は奇麗に片づけられてしまっていた。二人はしょんぼり帰った。やはり悪いことは出来ないのだ。

毎日遊ぶことといえば、石ころか棒切れでやるチャンバラごっこだった。
ある時、大家さんの息子の正ちゃんが、たまたま三輪車を貸してくれたことがある。三輪車を持っているのは金持ちの家の子しかいなかった。でも、ペダルがこわれて三寸釘を曲げて止めてあった。わら草履をはいていたので、釘が土踏まずの真中にささった。上までは出なかったが中々抜けない。大人に抜いてもらった。それからは恐ろしくて、二度と貸してくれとは言わなかった。

六歳の春であった。父が樺太から迎えにきた。物心ついて初めて見る父である。樺太の家に連れて帰るのだといわれ、嫌ともいえなかった。二年半、お世話になった方々にお別れするしかなかった。
稚内から大泊の港まで八時間はかかる。船の中の父は、カウンターのような所で一人チビリチビリ酒を飲んでいた。おそらく連れて帰ってからのことを、あれこれと考えていたのだろう。
留多加の町から五里(※一里は3.927km。五里は約20km)の道程は、到底六歳の子供では歩き通せるものではなかった。途中、手を引かれて夕方ようやく目的地に着いた。

初めて見る家は、丸太を組合わせた建物である。入口は戸でなくむしろが下がっていた。札幌では見たこともない家である。
恐ろしい感じがして中に入ろうとしなかった。札幌に帰ると、泣き泣き今まで歩いて来た道に向かって行こうとして皆を困らせた。

父は大工の経験もない素人であったが、二十二坪の家を建てていた。従姉妹(いとこ)夫婦と子供も同居していたので、すぐに淋しさは立ち消えていった。
札幌と違い広い野原がある。二十分も歩けば、まだ見た事もない大きな川があった。川幅は五メートルくらいある。後で調べてみたところ、北海道の石狩川より大きな川であった。全長二・○○○キロメートル以上ある。毎日、川向の部落に人だけ渡る木の橋がかかっていた。
後々、少年になってからは最高の遊び場になった。その後、父が作っていた家は丸太ではない。柱も角の柱である。壁は内外板張り、窓も一部屋一か所ずつ、ガラス窓のある本格的な家であった。本業の農作業をしながらよくやったものである。

(つづく)

〈南樺太の地図〉

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読んでいただきありがとうございます。
このnoteでは、戦争体験者である私の祖父・故 村山 茂勝 が、生前に書き記した手記をそのまま掲載しています。
今の時代だからこそできる、伝え方、残し方。
祖父の言葉から何かを感じ取っていただけたら嬉しく思います。

小俣 緑