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イグナチオ・デ・ロヨラの強迫観念的計算法(エッセイ)

 昨日は友達と天神さんの古本まつりに行ってきた。誰かと一緒に回ることは、雑然と並べられた本の山を、人の頭を目を借りて眺めることでもあって、ひとりで探していたのでは目に入らなかった本を見つけることができたりするのが楽しかった。本が好きな友達と本を見ながらとりとめのないおしゃべりをするのは楽しい。

 古本市で買った本に、『詩を生きる──ギュヴィック自伝』があり、この人は自分の考えを直截に表明する人で、その冒頭部分には、次のように書かれている。

 生きるということは、そもそも感覚することなのだ。詩もまたそのとおりだ。宗教を生きること、ビジネスを生きること、無関心を生きること、退屈を生きることは可能である。愛に生きるように憎悪に生きることもできる。
 人はその住む環境に従ってそれぞれのやり方で詩を発見するが、しかし詩なくしては生きることはできない。
 詩はそれがあるから生きていられるものなのである。人の自殺するのは、多くの場合、自分に詩が無くなったことを悟ったときだ、とぼくは確信している。
ウジェーヌ・ギュヴィック著、服部伸六訳『詩を生きる──ギュヴィック自伝』、株式会社青山館、1984年、p.9

 詩はそれがあるから生きていられるものなのである。詩の定義をここまで大胆に拡張してみせる、ギュヴィックの確信に満ちた、精力的な物腰に対しては、ほのかな共感と、どこか空疎なあこがれと、拭い難い反発を覚えるが、詩はそれがあるから生きていられるものなのである、当分はこのテーゼをひとまず受け入れて、生活をしてみようと思う。

 詩(ポエジー)とはもっともつつましいものから、もっとも偉大なものまで含んだ物との、われわれの係り合いから受ける感覚である。生活をモンテヴェルディの絶えざる恋歌とする感覚である。
 生活を──自分の生活を──そのひとつの音調を見つけ出すこと、そのいくらかの引き伸ばしと、そのいくらかの感動を見つけることだ。日常生活の出来事を、永遠というものの座標のうちに生きること、それがぼくにとってはポエジーなのである。
同書、p.9-10

 日常生活の出来事を、永遠というものの座標のうちに生きること、それはいかにして可能なのだろうか。イギリスの小説家ジョルジュ・デュ・モーリエの小説『ピーター・イベットソン』の同名の主人公は、「真の夢を見ること」を発見した。真の夢を見るとは、夢が単に視覚にしか訴えかけないものであることをやめて、「視覚と同様聴覚も暗室から解放され、人の話し声や笑い声、さらには虫の羽音や花の落ちる音までが聞こえて」くるほどの、強い現実感を感じ取ることができるものになることである。そのようにして、幼年期の場景やその手触りを何度も蘇らせ、そこに帰っていく、あるいは、後半生の大半を牢屋のなかで過ごしながら、最愛の人と同じ夢を見て、見出されたときとしての真の夢の中に生きるピーター・イベットソンの物語を引きながら、J.B.ポンタリスは書く(図書館ででたらめに借りた本で、この著者のことをよく知らない)。

われわれがここで目の当たりにしているのは、真実を現実へと引き下ろし、そのことで隠喩に対していかなる効力をも認めない抑うつ的な人によく見られる動きとは正反対のものである。ここでは現実が真実にまで高められている。まさに「あらゆる感覚が絶対的な真実の光を浴びていた」のである。
J.B.ポンタリス著、藤谷興一訳『魅きつける力』、みすず書房、1993年、p.24

 ピーター・イベットソンにおいては、真の夢を見ることによって、現実が真実にまで高められていた。そしてこれは言い換えると、日常生活の出来事を、永遠というものの座標のうちに生きることではないのか。ここで一度、自分にとっての詩、それなしでは生きられないもの、を数えてみる。生きていく理由、身も蓋もない恐怖と、臆病な天使のような躊躇いと、僅かばかりの感覚的な喜び。そしてまた、全体重をかけて軽くなるために、書くこと。貪るように読み、私の血肉と化す前に、流星のように忘却の方へすり抜けていく言葉の、眼裏に残る微かな熱を書きつけてみること。意味で焼き切れた脳髄の痺れ、すべてを押し流す大洪水の後の静寂、世界が一枚の白紙委任状となるまでに、沈黙を深めるために。そして完全な死体となり、愛された記憶とともに、墓の下で眠ることができるように。

 ロラン・バルトの『サド、フーリエ、ロヨラ』は、この相互に何らのかかわりもなさそうな三人について、彼らの書いた意味内容ではなく、三者は新しい言語体系の設立者として共通するエクリチュールに着目して、彼らのテクストを分析していく刺激的な一冊である。彼らは言語設立者としての活動にあたって、いくつかの同一の操作に頼っているとされている。

 第一の操作は孤立することである。新しい言語体系は物質的空白から現れねばならない。それに先立つ空間がこの新しい言語体系を、他の、怠惰な、時代おくれの共通言語からひきはなさねばならないが、その理由は新しい言語体系はこの共通言語の≪雑音≫によって邪魔されうるからである。記号による干渉が絶対にあってはならない。ロヨラは、修行者が神に問いかける祈りに助けを求める言語体系を練り上げるために、隠棲することを要求する。いかなる騒音もあってはならず、ごくわずかの光しか要らず、孤独がなければならない。サドはそのリベルタンたちを何ぴとも侵し入ることのできない場所に閉じ込める(シリングの城館、サント=マリ=デ=ボワの修道院)。フーリエは図書館の廃止を宣告し、哲学、経済、道徳からなる六十万冊の書物が検閲され、愚弄され、子供たちの気晴らしにふさわしいものとして道化的な考古学博物館のなかに放逐されてしまう。
ロラン・バルト著、篠田浩一訳『サド、フーリエ、ロヨラ』、みすず書房、1975年、p.4-5

 新しい言語体系の構築に先立って、共通言語の雑音から離れた物質的な空白を確保することが、彼らに共通する第一の操作なのだった。最近は、天使に関する本をよく読んでいて、その中でも沈黙は重要な役割を果たしているのがよく目につく。

 相愛の人々はふたりの同盟者──『沈黙』との同盟者──である。恋する男が恋人に語りかけるとき、恋人はその言葉によりも沈黙に聴き入っているのだ。「黙って!」と彼女は囁いているようだ。
 「黙って!あなたの言葉が聞こえるように」
マックス・ピカート著、佐野利勝訳『沈黙の世界』、みすず書房、1964年、p.104
 ぼくは外部の雑音……音楽の聞きすぎによって、ぼくのノイズを壊してしまわないようにしなくちゃならない。しばしば破断されるこのハーモニーのうえに、ぼくの言葉、ぼくの動詞、そして、最初の文は築き上げられ……そこに第二の文が……というように続いていくように僕は祈るのさ。
 ミシェル・セール著、石田英敬訳「天使伝説」(『現代思想1994年10月号 特集:天使というメディア』、青土社、1994年、p.64-65)

 外部のノイズを遮断することによって、自分自身のノイズを聞き分け、その上に、自身の言葉、動詞、第一の文章が築き上げられ、そこに第二第三の文が続いていくようにと、彼は祈る。ロラン・バルトの『サド、フーリエ、ロヨラ』の、イエズス会の祖、イグナチオ・デ・ロヨラのエクリチュールについて述べた章で、彼の強迫観念的計算法、それじたいの錯誤を生み出す計算法について触れている。「計算法の誤りを数えることが問題となる以上、この誤りをまちがって数えるという事実がこんどはまたあらたな錯誤となり、それがはじめのリストにつけ加わらねばならなくなる。このリストはこうして無限性の刻印を押されてしまい、錯誤を贖うための計算がそれとひきかえに計算そのものの錯誤を招き寄せるからだ」(p.96)。

 自動的に自己を維持する機械、機能していること自体だけで進行のエネルギーが供給されるよう作られた一種の錯誤の自動装置(ホメオスタット)を据えつけることこそ、まったくのところこの強迫観念の神経症的特徴なのである。こうして、イグナチオがその『心霊日記』のなかで、神にひとつのしるしを求め、神がそれをあたえるのをおくらせ、イグナチオが耐えられなくなり、耐えられなくなるのをみずから非難し、このひと巡りをもう一度やり直すのが見られることになる。まず祈る、つぎに祈り方が誤っているのを憎み、やり損じた祈りに詫びの補足的祈りをつけ加える、等々。あるいはまた、選定を惹き起こすためのミサをおえねばならないかどうか決めるために、もう一つの余分のミサをあげることを計画する……計算法には、機械的利点が含まれている。なぜなら、ひとつの言語活動についての言語活動であるため、計算法は誤差とその計算とのあいだの無限の循環に耐えるのに役立つからだ。
ロラン・バルト著、篠田浩一訳『サド、フーリエ、ロヨラ』、みすず書房、1975年、p.96-67

 以上、古本まつりで買った本から導き出された、とりとめのない連想でした。

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