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笠に隠された日本女性の秘密!江戸後期の古文書、山東京伝の『骨董集』中巻を訳してみた~第3回(全6回)

前回の第2回目は、提灯・行燈という火を灯すものに注目した、山東京伝の考証でした。今回はたった一項目「笠」です。現代ではまったく使われなくなってしまいましたので、あまり関心が持てないかもしれませんが、なかなか興味深いことが書かれています。日本女性の笠の使い方に隠された秘密とは?乞うご期待!(これは考証随筆で、全文が訳したものです)

1.笠の下に布を垂る

『秋斎間語(宝暦三年印本)』巻の二に、
享禄二年の古画が載っている。

後述のように、今思うには、家長の女性は
被衣かつぎ・かずき※のようなものの上に
市女笠いちめがさをかぶったようである。
 
 ※被衣=公家や武家の女性が外出時に頭から
     かぶった布

側仕えの女性や下女は手ぬぐいのような
一枚の布を頭から垂らして、その上に
笠をかぶったのである。

『職人歌合』の女性の頭に巻く布とは別である。

『秋斎間語』所載の享禄二年の古画

享禄二年は今の文化十年よりおよそ
二百八十五年昔で、当時の女性の衣服は
非常に長い。この図は詳細なものではないが、
概ねこのようなものだろう。

ここに書かれたことは、
『秋斎間語』のままを写したものである。

<右>「一行の下女の姿である。
袋を持っているが昔風のものである。

<中央>側に仕える女性とみられる。
下女は髪を下げず、
側仕えの女性は髪を下げるといっても
かつらをつけている。

<左>主人の姿は今でいう被衣のようなものを
着ているか、上に着るのは大内着とみられる。
市女笠をかぶるのは髪型が崩れるのを
避けるためか。

<上段>

◆寛永時代の古画にこの図あり

・この笠はひとつの古い型と見るべし。

・鳥羽僧正などの絵巻に、市女笠のような笠の
 まわりに幅広く長い布を縫い付けたものが
 ある。古い絵巻には、身の丈ほどに長いものを
 笠に縫いつけたものもあり。これらは山中を
 歩くときに、ひるを避けるためらしい。

<中段>

◆詞花堂蔵本 天和四年印本
 菱川の絵にこの図あり

<下段>

◆杏花園蔵本 寛文二年印本『要石』所載

・これらの古図を参考にすると
 寛永・寛文・天和頃までも頭に布を垂れて、
 その上に笠をかぶった。
 右下の絵に現したのは、享禄頃の様子だろう。

 老女は寒気を防ぎ、若い女性は顔を
 隠すためだった。笠の下に奇特頭巾きどくずきん※を
 かぶったものと同じ類のものだろう。

 ※奇特頭巾=目の部分だけを開けた黒い頭巾

2.女の編笠・塗笠

女性が編笠・塗笠をかぶるようになったのは、
たいへん古いことである。

古い絵巻などにたくさん見られ、中世でも
女性は顔を見せることを恥とし、道を歩くにも
深く笠をかぶり、また、覆面などもしていた。

貧しい女性も顔を見せて歩くことは稀だった。

寛文頃までは、女性の編笠・塗笠はとても
深くて、全く顔を見せることはなかった。

寛文二年の印本『江戸名所記』などの絵を見ても
わかるだろう。

『獨語』には、「江戸の女性は外に出るとき、
昔は自由に黒い絹で頭と顔を包み、目の部分
だけ開けていたのだが、そのうち綿で包む
ようになり、宝永頃まで続いた」とある。

『礼記』には「内則※、女子門を出るとき、
必ずその面を擁蔽ようへい※す」とあるので、
おのずから合致する。

 ※内則=内部で決めた規則・内規
 ※擁蔽=覆い隠すこと

『毛吹草(維舟撰、正保四年刻)』
 「花笠を ぬり笠となす かすみかな」

『崑山集(慶安四年、令徳撰、明暦二年刻)』
 「紫の 覆面したき 顔よばな」

『幕つくし(延宝六年刻)』
<附合の句>「ふくめんぬり笠 しぐれの秋」

『二代男(貞享元年印本)』巻の五
「四十七八歳の妻が、汚れた露草色の布子※に、
昔の塗笠に観世縒かんぜより※の緒を付けて、
古い綿帽子に寺の礼扇を持ち添えて」
と見られるが、
貞享頃から塗笠はやや廃れたのだろうか。

 ※布子=防寒用の綿入れ。ちゃんちゃんこ、
     どてら、羽織ともいう
 ※観世縒=和紙を細長く裂いてったもの

『女用訓蒙図彙(元禄元年印本)』巻の四
「人の心のいろ深き、訳ある衣紋伊達姿、真野の
菅笠かかえ帯、追風あたりに芬々ふんぷんたり。
これこそ都の女郎だ」
とあるので、元禄のはじめは菅笠をもっぱら
かぶっていたのだろう。

『其袋』嵐雪撰、元禄三年刻
 「菅笠や 男若弱にやけたる 花の山」

当時、男性が菅笠をかぶるのは、
似合わなかったようだ。

『俗つれづれ(元禄八年印本)』巻の四
「四十四五歳の女性は、昔だったら
兵庫曲げを趣ありげに、浅黄にウコン裏の下着
(中略)
紫革の足袋に萌黄の紐をつけ
塗笠に目につく穴を開けて
頭頂部を目立たなくして
赤い締め緒を全部いよいよ取ってしまった」
とあれば

当時は塗笠・紫足袋ともに廃れて、古くさい
ものとなってしまったようである。

『俗つれづれ』にはまた、水口の八兵衛ざしの
木地のつづら笠に、千筋こよりの紙紐を
付けたものを当世風と言った。
(安永<※注目>の頃を振り返ると、つづら笠を
かぶっていたが、ほどなく廃れた)

<※注目>安永は山東京伝が十代の頃に当たる
ので、昔を振り返ってこう言っているのである。

『俳諧日本国(元禄十六年印本)』
<附合の句>「丸盆に 塗笠きせる きらず買」
これらも当時塗笠が時代遅れになった証だろう。

『松の葉(元禄十六年印本)』
塗笠という端歌に「御方おかた、塗笠、七年早い。
菅笠に代えて、お召しやれさ。合う蓑笠は、
いよこの、最多さ。なりは良うて、
びゃくらい※器用でさ」

 ※びゃくらい=実に

当時の塗笠は老女のかぶる物だったので、
若い女性は菅笠をもっぱらかぶっていた
という証拠である。

『花見車(元禄十五年印本、松羅舘蔵本)』
 「初花や ふくめんしたる 女子おなごの目」

『和漢三才図会』
「塗笠:薄き片板を用い、紙にてこれを張り、
漆黒色京師及び大阪を出だす」

『同書』
越前国の土産の部
「塗笠:戸の子(砥の粉)より出す」

『我衣(古老の物証を図に書き出したもの、
曳尾庵蔵本)』
「子どもの塗笠は小ぶりで、内側に菊・牡丹・
梅・椿・水仙・桔梗・かきつばた、などが描かれ
てある。紅・浅黄の紐を通し、頭上で結ぶ」

<上段右・中段右・中段中央>

◆寛文二年印本『江戸名所記』所載

・石畳模様は古いもの。

・『孔雀楼筆記』には、昔の女性の服は石畳
 うろこ形の小袖や地無小袖等があったことが
 記載されている。

<上段中央>

◆『江戸名所記』所載

・当時は塗笠・編笠ともに深くかぶる女性が
 はちまきをするのは古い風習で、
 昔の礼儀である。

<上段左・中段左>

◆反故堂所蔵、延宝時代の雛の小屏風の絵に
 この図あり 

・延宝頃は編笠も塗笠も浅くなったが、こうして
 笠の下に奇特頭巾きどくずきんというもの
 をかぶって顔を隠した。

<下段右・下段中央>

貞享頃の絵にこの図あり

・これを奇特頭巾きどくずきんといい、あるいは
 きまま頭巾ともいう。

・其角の『五元集』に
 「目ばかりを きまま頭巾の 浮世かな」

・『七車集(元禄八年撰)』
 <前句>「花にちる 吉野の町の 片下がり」
 <付句>「気まま頭巾の 春の行き交い」

<下段左>

貞享四年印本『武道伝来紀』に載る図
 
・文使いの女性が奇特頭巾きどくずきんをかぶる姿。

<上段>

◆天和四年印本、菱川師宣の絵にこの図あり

・当時はこうした綿で頭と顔を包むのは、
 中年女性や老女に多く見られた。

・『物類称呼』には綿帽子は江戸で”てぼそ”
 といい、堺では”こきん綿”という。肥後で
 ”てぼそ”というのは腰帯のことだそうだ。
 これは作られた形によるのだと思う。

 また、ある物に紫の”てぼそ”というものが
 見られるが、菱川の絵などに、少女が紫の
 ほおかむりをした姿が多く描かれているのも
 これだろう。

 しかし、綿に限らず、幅の狭いことを指して
 手細というから、腰帯を手細というのも
 幅が狭いという意味ではないか。
 幅の狭い布を細布という類だろう。

<下段右>

◆元禄二年印本『本朝桜陰比事』所載

・元禄中は塗笠は廃れて、常にこうした菅笠を
 かぶっていた。

<中段・下段左>

◆『大和名所鑑』所載

・天和・貞享・元禄頃の女性の編笠の形は、
 寛文・延宝頃とは大きく変わったことを
 見てほしい。
 
 当時この編笠をかぶっていたのは、多くは
 振袖姿の少女である。菱川の絵にたくさん
 見られ、これを小女郎手といい、
 男子もかぶっていた。

 また、一文字というのは形による名である。
 前下がりにかぶって顔を見えないようにする
 のをすべて伏編笠ふせあみがさという。

・『紫一本』には、知っている人に見られるかも
 しれないと、熊谷笠を伏せてかぶったと
 書かれている。

 また、編目の細かいのを目狭めせきというのは、
 いわゆる伊勢編笠である。

・『和漢三才図会』に見られるのは、
 男子の笠である。

3.桔梗笠

『犬子草(寛永十年刻)』
 「野遊びや 花すり衣 桔梗笠』
『毛吹草(正保四年刻)』
 「さく花の しべをやすめを 桔梗笠」
『玉海集(明暦二年刻)』
 「花ならで 雨にひらくや 桔梗笠」
『口真似草(明暦二年刻)』
 「花いけの 耳をかくすや 桔梗笠」
『物忘草(明暦三年刻)』
 「野遊ひや 踊ありかば 桔梗笠」
『夜錦集(寛文五年撰)』以上、六部狂歌堂蔵本
 「露ふかし 蓑きてかよへ 桔梗笠」

上記のような古い俳諧の句集に、桔梗笠という
言葉の入った句が多い。当時使われた笠だろうと
思われるが、どんな形のものかわからないので、
次の古図を手に入れてその形を知った。

また、『山乃井(慶安元年刻、著作堂蔵本)』
にも、「桔梗笠というものがあるが、
花の顔隠せとも人目忍ぶ草隠れ、
という心を言ったものだ」とある。

今も羽州秋田船越天王の船祭では、
次の図のような笠をかぶるようだ。
桔梗笠の名残だろう。

桔梗笠の古図

<上段中央>

・天和・貞享頃の子ども遊びの絵巻の中に
 この図がある。笠は青黄赤一つおきに
 彩られている。

<中段>

・貞享頃の絵にこの図あり
 大神楽打の姿

・大神楽打の少年の姿

<下段>

・元禄頃の絵にこの図あり
 この二人は美少年の姿


【たまむしのあとがき】

笠はその違いを各々イメージするのが難しいですね。

塗笠と菅笠、どう違うのか調べてみたら、確かに塗傘の方はお椀のような形をしていて、古臭い感じがします。逆に、菅笠は風流な感じです。

やっぱりブームも見た目が関係してくるのかもしれません。

ところで、日本でも女性は顔を人に見せることを避けるために、笠を深くかぶったり、布で顔を覆ったりした、と文中にありましたが、まさに現代のイスラム圏でのブルカやヘジャブそのものだと驚きました。

習慣やモノも変化していって、そうしたものがそのうち無くなってしまう国と、いつまでも変わらない国と、本当にさまざまだなと思います。

なぜ笠がなくなってしまったのかな、と改めて考えてみたところ、明治以降、帽子に代わっていったんですね。

では、なぜ帽子が普及したのかとなると、洋装化が進んだことと、機械化によって大量生産が可能になり、安価で提供できるようになったからです。

こうして『骨董集』を読むと、ここに出てくるものは、今では姿を消してしまったものばかりですが、それはつまり、日本が大きく変化していったということの裏付けともいえるのではないかと思います。

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